勤労感謝の日に、ある友人と会った。
しんどいプロセスの間、ふとしたときに、その人のことを思い出した。
その人が「恐い」と言っていたことを、それを聞いたときの自分は全くわかっていなかった。
ということを思った。
その人になら、話せるかもしれない。
このつらさをわかってくれるかもしれない。
・・・と思いつつ、3ヶ月が経った。
今は、その時ほど切羽詰まった感じはない。けど、ふらっと連絡してみた。
実際会うと、いろいろ話して、気がついたら6時間近く話していた。
「『話す』は『放す』だからね」とその友人は言った。
今日、その友人から、メールをもらった。
そのメールは、なんだかとても清らかで、なんだかとても美しかった。
そこには、励ましではなく、祈りのような言葉があり。
それらに、私に力を与えてくれた。
今の私には、励ましの言葉は重過ぎる。励ます人に悪氣がないのは十分わかっているが、押し付けがましく感じる。
今の私に必要なのは、直接的なしっかりとした支えではなく、
もっと微細で、形がよくわからない、でも確実に存在している、空気のようなゆりかご。
友人のメールは、まさしく今の私に必要なゆりかごのようだった。
この美しい言葉を聞くために、
この繊細なサポートに気づくために、
あのことを思い出したのかもしれない。。
とすら、思った。
と書きつつ、「それぐらいじゃ、全然割合わないよ」とブーたれている私もいるんだけどね。
ブーたれている私も、かわいいなぁ。。
と今は思う。