一香堂(ひとかどう)の身辺雑記

人生面白がろう😆一香堂はり灸師@神楽坂の雑記帳

ま、人間ですから

既存のものに、あれこれ言うのはたやすい。

自分の中にある、あれこれの意見・批判をふまえ、じゃぁ、今自分は何をするか?を常に心に留めている。
そういう人でありたい・・・と思っています。

批判、批評も大事ですが、それをそのままほおっておくと、思考停止になりガチ。分断されガチ。

それらは、私を腑抜けにする。力を失わす。絶望感、徒労感に溺れる。

わかってますって。そんな風な私になるのは、別に「その人」のせいじゃない。

自分の中に、眠っていた自分。単にそれらに反応して起きてきただけのこと。
それはかつての自分。物知り顔でほざいていた、過去の自分。そして、未来の自分。

この世は鏡だ。

と思っていても、ツラいことはツラいですね〜。嫌なものは嫌ですね〜。

ツラいのに「ツラくない」、嫌なのに「嫌じゃない」と思うのも、いのちをイジメますし。

ま、人間ですからね。 

 

人生は面白い。 

『仁光の受難』と「世の中は色気で動いている」説

Twitterで最近、仏教筋の方々をフォローしたおかげで知りえた映画『仁光の受難』、観に行ってきました。

ninko-movie.com

予想裏切らず、面白かったです。このクオリティで自主映画、素晴らしいです!金かければいいものができるって訳ではないんですね〜。

何から何までが、ちょうどいい感じ。いい塩梅ってやつです。

演じている役者さんたち、ナレーションの声、音楽、実写と浮世絵風アニメーションのバランス、エロスと妖さと可笑しさの加減、映画の長さも。

どなたかのコメントに「おっぱいがいっぱい」とありましたが、おっぱいだけではありませんw。仏教の世界観も垣間見えますよ。
観終わったあとは、スッキリした感じでしたが、時間が経つにつれ、「結構深いな〜」とじわじわ来てます。かつてのテレビ番組『まんが日本昔ばなし』の雰囲気も漂わせていますね。

印象的なシーンは、山女に股がられた仁光が「致し方ない」と何度も言って(お経のようにも聞こえた)吹っ切れたように身を起こすところ。
実は存在していたのにそれを無きものとしてきた、仁光の欲望の力は、妖怪(あやかし)の山女さえも滅ぼすというパワフルさ。
「欲望は悪だ」と決めつけ、それを無きものとして認めず蓋をすると、ただの欲望は魔物に変身していくのでしょうか。

「致し方ない、致し方ない」しばらく、ぐるぐる回ってました🌀

この映画観て思い出した話があります。

数週間前、ある友人が語った「世の中は色気で動いている」説。

カルティエ某店で購入した商品に購入後数ヶ月で不具合があり、そのクレームと修理の件でお店に行ったときのこと。
その席に現れた店長は、「さすが一流ブランド」と言わしめる風貌と物腰の持ち主で、彼女が言うには「色気が半端なかった」そう。 
彼と話をしているうちに、「私ったらこんなことでクレームしてお恥ずかしい💦」(実際の言葉はこんなじゃなかったけど、ニュアンス的に)みたいな氣分になったそうな。
そのとき「世の中は色気で動いている!」と悟ったって。
その話を聞いた当初は「色気で動くか〜??」と彼女の説に同意しかねましたが、案外、人間って単純なもので、あながち嘘ではないかも…と思い始めています。

異常にモテまくる僧侶、仁光とその一流ブランド某店長が、重なって見えました(私は実際その店長を見てないけどね)

新宿の角川シネマで、10月6日(金)まで上映中です。
煩悩について深く知りたい方、おっぱいと僧侶を見たい方 (そんな方がいるかはさておき)は、ぜひ!

 

人生は面白い。

”ソレ”の存在

般若心経を唱えていると、意識は遅いと感じることがある。

正確には、意識の少し前を走っている"モノ"がいる。「いる」より「ある」でしょうか。

“ソレ”はかなり微妙で、存在感をうっすら感じ始めて捉えようとした途端に消えてしまう。その形や色をよく見たいと目を凝らすと、そこにはもう無い。

「ある」ことはわかっている。が、正体はわからない。

わかったのは、ソレはとても静かだ、ということ。何かを発しているわけでもなく、何かをしているわけでもなく、只々ある。
色もなく、音もなく、匂いもなく、重さもない。
必死に探すと現れてこない。話しかけようとすると消えてしまう。

遠くではない。すぐそこにあるのだが、手は届かない。

でも、確実に「ある」。

私は、いつ立ち現れるかわからない"ソレ"の存在を感じつつ、毎朝唱える。

 

人生は面白い。

『シュタイナーの挑戦』とりあえず英語で挑戦

先日、こちらにシュタイナーのことをちろっと書きました。

hitokadoh.hatenablog.com

昨日、友人の投稿でシュタイナーの映画の上映会があることを知り、行こうかと思ったのですが…

YouTube見ていたら、アップされていた!


The Challenge of Rudolf Steiner (UK, 2011)

ひとまずこれ見てから、通訳入れても見たいかどうか判断しようっと。

著作権の観点からは問題あり、なのだろうけど…YouTube様様です。繰り返し見たかったらDVD買います。

 

人生は面白い。

『禅八講』覚書

自らの覚書として、『禅八講 鈴木大拙 最終講義』より引用。 

この例えはとても腑に落ちた。「自己」と言うも、それは自分がそれと思っていた「自己」と同じなのか?言葉にも幾重の次元があり、その言葉がどの次元から発せられているのか探るのも、ある種旅のよう。

一人の祖師から次の祖師へ、あるいは師から弟子への伝灯といわれるものとは、この「本来の顔」の受け渡しにほかならない。(略)「顔」とはその人自身のものである。他人から借りるものではない。借りたら、それは自分の顔ではないから、自前の顔の上にさらに人の「顔」をつけたいと望むわけがあろうか。禅で必要なことはただ一つ、生まれる前からもってきた本来の顔を知ることである。それは善悪、正邪、論理・非論理の内容をすべて捨てた「自己」以外にはない。それは物事のありのままの姿である。公案も要らず、「喝」も不要である。 (p.39-40)

知性は「洗練されている」ように見えるが故にトリッキー。わかったつもりが、その実全然見当違いだった、なんてことは数知れず。知性の糸、見えたと思ったら、またわからなくなった。

禅は決して知性そのものを軽蔑しない。(略)知性は不可得なものに眼を向けさせるか、それを指し示してその所在を教えてくれる。不可得なものの領域に直接人を連れていってくれるのは、知性ではない。それは、いってみれば入口で止まる。身の周りの一切を捨てて中にはいるべきは、われわれ自身である。たった一筋の糸が身体に残っていても、それが障害になって扉は眼の前で閉ざされるであろう。知性の糸は、可得なものが支配する領域にかならず人を引き戻す。 (p.44-45)

  

われわれは感性・知性の世界に住み、どんな状況に遭遇しても問わずにいられない性格であるかぎり、知性に頼り、知的解決を求めるのになんの非もない。禅が反対するのは、いかなる疑問にもなんらかの解決を提供するものが知性だけだと見なすことに対してだけである。 (p.48)

潮が満ちるときがあるように、どんなことも「そのとき」がある。私の「そのとき」はいつのことやら…

 一方で知性を立て、他方に不可得なものを立てると、そのものは捉えられない。二つを互いに分離させようとしてはならない。両者を対立させてはならない。分離と対立があるかぎり、解決は望めない。不可得なものがそれとして受け入れられれば、不可得性は消えてなくなる。初めに可得なものと不可得なもの、可知のものと不可知のもの、概念化と真実との間にどんな対立があったとしても、それはもうない。これを禅経験というのである。

 その経験がゆきわたると、可得なものは不可得なものと一体化し、不可得なものは可得なものと合体する。一方をとれば、他方もこれについてくる。しかし、このことは概念的な次元で起こるのではなく、実存的、あるいは経験的な次元で起こる、あるいは別の用語を用いてーー静的ではなく動的に、空間的ではなく時間的にといってもよかろう。 (p.50)

 

「幻の身体が鏡の中にその姿を映す

影像と幻の身体ーー二つは別物ではない。

汝は影像をすてて

  身体だけを保持したい、ーー

身体も映像も

  端から空であるのを忘れて。

身体と影像は、端から二つではない

一方は自立できず、

  もう一方は存在しない。

一方を捨てて他方を保持したいなら

汝は生死の海に漂い、沈みつづける」  (p.52)

 

人生は面白い。

初・大拙本

禅八講 鈴木大拙 最終講義』読了。
 

鈴木大拙の名前を知ったのは、おそらくケン・ウィルバーから。何かの本で彼の言葉が引用されていました。いわゆる「逆輸入」的に彼の名前を知ったわけです。

それから、名前はよく見聞きするものの、彼の著書を読もうとは思いませんでした。「禅」というものに興味はあるものの、なんとなく近寄り難い空氣を感じていたからかもしれません。禅の他に興味があるものがたくさんあった、というのもあります。

昨年永平寺の参禅修行に参加したことが、やっぱり大きかったかも。海外からの参加者がいて、すでに何度か参加しているということを知ったとき、禅の広がりを肌で感じました。
hitokadoh-aider.hatenadiary.jp
それ以後も、仏教関係・禅関係の本はあまり読まなかったけど。

先月ちょっとしたご縁で井上貫道老師のことを知り、今月の坐禅会で何かのスイッチが入りました。
hitokadoh-aider.hatenadiary.jp

そんな流れで、『禅八講 鈴木大拙 最終講義』です。

日本人に伝えるのも難しい「禅」を海外に英語で伝えるって、それを想像しただけでも「お〜〜〜!!」って驚嘆します。

大拙自身が書いているように、「禅を論理的・心理学的に扱う場合、それが禅のすべてだといえば、禅理解に置いて最大の誤りを犯すことになる」が、だからこそ仏教・禅ビギナーの私にはわかりやすい。言葉が拒絶されずに入ってきます。

「時に批判される可能性がある。」けれど、「正確さを犠牲にするかも知れない危険を冒しつつ、一般の人々に、よしんばかりそめにでも、あるいは間接にでも禅を知ってもらおう」という大拙の思いの恩恵に預かりました。

私は「自己の問題で心底から悩んでいる心の持ち主」…とまでは行かないまでも、「真の自己を心から知りたが」っていたんだと思いました。

しかし自らを超越する力がないかぎりは、決して真の自己には到達できない。真の自己は真の自己にしか知られない。 (p.178)

そう、この感じ。

人は真の自己をばかげた作りごとで、経済生活では役に立たないとして捨てられるだろうか。真の自己という問題に一度も注意を払わなかった人は数多く、(略)見たところ彼らは現世で快適に暮らしている。富を蓄え、世間の評判は良く、家族に愛され、従って自分に満足し、一言でいえば幸福である。であるならば、現実と無縁な問題になんで煩わされる必要があろう。真の自己など、どうでもよい、自分たちはそれなしで立派にやってゆける、と彼らは言う。 (p.178-179)

本当にそうなのであるだけれど、そうは生きてゆけない自分がいてかなりのコンプレックスだった。「ばかげた作りごと」と頭で思う一方、「真の自己を知りたがっている」のを無視すると、自分が切り刻まれた感じがして「幸福」とは感じられない。 厄介だけど、しようがない…と諦めたのはいつの頃か。諦めたら、同じ種類の人間に出会うから不思議だ。そういう人も結構いるんだ、と。

この本から、大拙も伝える言葉、伝える方法を試行錯誤している様子が垣間見えて、なんだか好感が持てました。

言葉を超えたものを言葉で表現する。表現しきれなくても表現することを止めない。表現することをつい諦めてしまいがちな私、心に留めておこう。

経験は表現を与えられ、人がそれを適切に表現しようと努めるからこそ、真に力と深みと明晰さを獲得するのである。自己を合理的に表現しようと努めるこの努力は経験そのもの一部をなすからである。 (p.193)

この本の解説の「本書の読み方」(p.219)にあるように、禅ビギナーは第二部から読む方がわかりやすそうです。

 

人生は面白い。

「感じて、漢字の世界」で我が名を知る

古代文字の書をやっている友人が転送してくれました「感じて、漢字の世界」。「今日の漢字」が、私の名前でもある「香」だったので。

面白い!香りはお酒の香りだったんですね〜。

漢字って、神様や祈りとの関係があるものが多いです。確か、白川静先生の本に、神様との通信手段として漢字は使われていた、というようなことが書いてあったと記憶しています。素敵ですね。

普段使っている漢字の奥底に流れている古代の人の価値観を感じると、その字のもつ世界がまた広がりますね〜。

こういう世界観を知ると、自分の名前が好きになります。今まで抱いていた名前に対するイメージも変わります。

ちなみに「香」の古代文字はこんなです。前述の友人が所属している天遊組Exhibitionに昨年行ったとき、「お名前書きワークショップ」で書いたものです。

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黍と「サイ」と呼ばれる器が表されているのが、今の漢字よりわかりやすいですね。

このブログのタイトル部分に表示されているのは、はり灸 一香堂のロゴ。丸の部分が「香」の文字です。

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こちらのロゴ、前述の友人が古代文字でデザインしてくれました。
hitokadoh.hatenablog.com

その友人が所属している天遊組、10月13日〜16日に10周年Exhibitionやるそうです。
お名前書きWSもやるみたいなので、自分の名前を古代文字で書いてみたい方はぜひお運びください。結構ハマりますよ!
詳細は 
古代文字アーティスト集団 天遊組 10th Anniversary Exhibition みのり -原点回帰- | TEN-YOU

漢字の世界も、なかなか奥深いです。

 

人生は面白い。