一香堂(ひとかどう)の身辺雑記

人生面白がろう😆一香堂はり灸師@神楽坂の雑記帳

初・大拙本

禅八講 鈴木大拙 最終講義』読了。
 

鈴木大拙の名前を知ったのは、おそらくケン・ウィルバーから。何かの本で彼の言葉が引用されていました。いわゆる「逆輸入」的に彼の名前を知ったわけです。

それから、名前はよく見聞きするものの、彼の著書を読もうとは思いませんでした。「禅」というものに興味はあるものの、なんとなく近寄り難い空氣を感じていたからかもしれません。禅の他に興味があるものがたくさんあった、というのもあります。

昨年永平寺の参禅修行に参加したことが、やっぱり大きかったかも。海外からの参加者がいて、すでに何度か参加しているということを知ったとき、禅の広がりを肌で感じました。
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それ以後も、仏教関係・禅関係の本はあまり読まなかったけど。

先月ちょっとしたご縁で井上貫道老師のことを知り、今月の坐禅会で何かのスイッチが入りました。
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そんな流れで、『禅八講 鈴木大拙 最終講義』です。

日本人に伝えるのも難しい「禅」を海外に英語で伝えるって、それを想像しただけでも「お〜〜〜!!」って驚嘆します。

大拙自身が書いているように、「禅を論理的・心理学的に扱う場合、それが禅のすべてだといえば、禅理解に置いて最大の誤りを犯すことになる」が、だからこそ仏教・禅ビギナーの私にはわかりやすい。言葉が拒絶されずに入ってきます。

「時に批判される可能性がある。」けれど、「正確さを犠牲にするかも知れない危険を冒しつつ、一般の人々に、よしんばかりそめにでも、あるいは間接にでも禅を知ってもらおう」という大拙の思いの恩恵に預かりました。

私は「自己の問題で心底から悩んでいる心の持ち主」…とまでは行かないまでも、「真の自己を心から知りたが」っていたんだと思いました。

しかし自らを超越する力がないかぎりは、決して真の自己には到達できない。真の自己は真の自己にしか知られない。 (p.178)

そう、この感じ。

人は真の自己をばかげた作りごとで、経済生活では役に立たないとして捨てられるだろうか。真の自己という問題に一度も注意を払わなかった人は数多く、(略)見たところ彼らは現世で快適に暮らしている。富を蓄え、世間の評判は良く、家族に愛され、従って自分に満足し、一言でいえば幸福である。であるならば、現実と無縁な問題になんで煩わされる必要があろう。真の自己など、どうでもよい、自分たちはそれなしで立派にやってゆける、と彼らは言う。 (p.178-179)

本当にそうなのであるだけれど、そうは生きてゆけない自分がいてかなりのコンプレックスだった。「ばかげた作りごと」と頭で思う一方、「真の自己を知りたがっている」のを無視すると、自分が切り刻まれた感じがして「幸福」とは感じられない。 厄介だけど、しようがない…と諦めたのはいつの頃か。諦めたら、同じ種類の人間に出会うから不思議だ。そういう人も結構いるんだ、と。

この本から、大拙も伝える言葉、伝える方法を試行錯誤している様子が垣間見えて、なんだか好感が持てました。

言葉を超えたものを言葉で表現する。表現しきれなくても表現することを止めない。表現することをつい諦めてしまいがちな私、心に留めておこう。

経験は表現を与えられ、人がそれを適切に表現しようと努めるからこそ、真に力と深みと明晰さを獲得するのである。自己を合理的に表現しようと努めるこの努力は経験そのもの一部をなすからである。 (p.193)

この本の解説の「本書の読み方」(p.219)にあるように、禅ビギナーは第二部から読む方がわかりやすそうです。

 

人生は面白い。