自らの覚書として、『禅八講 鈴木大拙 最終講義』より引用。
この例えはとても腑に落ちた。「自己」と言うも、それは自分がそれと思っていた「自己」と同じなのか?言葉にも幾重の次元があり、その言葉がどの次元から発せられているのか探るのも、ある種旅のよう。
一人の祖師から次の祖師へ、あるいは師から弟子への伝灯といわれるものとは、この「本来の顔」の受け渡しにほかならない。(略)「顔」とはその人自身のものである。他人から借りるものではない。借りたら、それは自分の顔ではないから、自前の顔の上にさらに人の「顔」をつけたいと望むわけがあろうか。禅で必要なことはただ一つ、生まれる前からもってきた本来の顔を知ることである。それは善悪、正邪、論理・非論理の内容をすべて捨てた「自己」以外にはない。それは物事のありのままの姿である。公案も要らず、「喝」も不要である。 (p.39-40)
知性は「洗練されている」ように見えるが故にトリッキー。わかったつもりが、その実全然見当違いだった、なんてことは数知れず。知性の糸、見えたと思ったら、またわからなくなった。
禅は決して知性そのものを軽蔑しない。(略)知性は不可得なものに眼を向けさせるか、それを指し示してその所在を教えてくれる。不可得なものの領域に直接人を連れていってくれるのは、知性ではない。それは、いってみれば入口で止まる。身の周りの一切を捨てて中にはいるべきは、われわれ自身である。たった一筋の糸が身体に残っていても、それが障害になって扉は眼の前で閉ざされるであろう。知性の糸は、可得なものが支配する領域にかならず人を引き戻す。 (p.44-45)
われわれは感性・知性の世界に住み、どんな状況に遭遇しても問わずにいられない性格であるかぎり、知性に頼り、知的解決を求めるのになんの非もない。禅が反対するのは、いかなる疑問にもなんらかの解決を提供するものが知性だけだと見なすことに対してだけである。 (p.48)
潮が満ちるときがあるように、どんなことも「そのとき」がある。私の「そのとき」はいつのことやら…
一方で知性を立て、他方に不可得なものを立てると、そのものは捉えられない。二つを互いに分離させようとしてはならない。両者を対立させてはならない。分離と対立があるかぎり、解決は望めない。不可得なものがそれとして受け入れられれば、不可得性は消えてなくなる。初めに可得なものと不可得なもの、可知のものと不可知のもの、概念化と真実との間にどんな対立があったとしても、それはもうない。これを禅経験というのである。
その経験がゆきわたると、可得なものは不可得なものと一体化し、不可得なものは可得なものと合体する。一方をとれば、他方もこれについてくる。しかし、このことは概念的な次元で起こるのではなく、実存的、あるいは経験的な次元で起こる、あるいは別の用語を用いてーー静的ではなく動的に、空間的ではなく時間的にといってもよかろう。 (p.50)
「幻の身体が鏡の中にその姿を映す
影像と幻の身体ーー二つは別物ではない。
汝は影像をすてて
身体だけを保持したい、ーー
身体も映像も
端から空であるのを忘れて。
身体と影像は、端から二つではない
一方は自立できず、
もう一方は存在しない。
一方を捨てて他方を保持したいなら
汝は生死の海に漂い、沈みつづける」 (p.52)
人生は面白い。