一香堂(ひとかどう)の身辺雑記

人生面白がろう😆一香堂はり灸師@神楽坂の雑記帳

破れた心は、開いた心

前回書いた本、『それでも、あなたを愛しなさい』の最初に出てきます。

悲しみで破れた心はまた、大きく開いた心でもあります。(p.3) 

 「大きく開いた心」には、いつもよりたくさんのものが入ってきます。

 

2003年にフィンドホーン共同体の体験週間に参加したときのこと。

体験週間では様々なワーク(セラピー的なのも含め)をやるのですが、何日めかのワークでとても印象に残っているものがあります。

ペア・ワークです。
一人が「愛」になって相手に愛を送る役、相手の人は確か「辛いときの自分」を身体で表現する、だったっけ?(違うかも。。忘れました)

私が「愛」の役になったとき、相手の方は背中を丸めて亀のように固まっていました。
「愛」の光の私は、すぐ側に「愛」がいることをどうにかして氣がついてもらいたいのですが、相手は閉じこもったままでした。
優しくタッチしたりして、「氣づいて」サインを送りましたが、相手は変化なく、じっとしたまま。力を強めて、相手の甲羅を開こうとすれば、ますます体を硬直させ、悪循環。。。

そんな姿を見たとき、ふと浮かびました。
「いつぞやの私も、こんな風だったのでは・・・」

私が閉じていると、全然氣付けないんだ。
こんなに近くに「愛」があったとしても、開いていなければ存在すら氣がつかない。
たとえいっぱい愛が私に降り注いでいたとしても、私が受け取ろうとしなければ、それは私の中に流れこんでこない。

「こういうのをイジケている、っていうのかな」

何の助けも救いもなく、見捨てられたように感じたら、それは私が閉じている、というサインなのかもしれない。

ってね。

悲しみであなたの心が破れたように感じたら、それは、愛がいっぱい流れ込んでくる前兆なのかもしれません。

破れて開いた心で、受け取ろう!とただ決めればいいのかもしれません。

「愛をたくさん受け取るために、心が破れたんだ」
そう思ったら、破れた心の痛みが、また違うものになるかもしれません。

心が破けて開く。そして、そこが愛で満たされる。

なぜ破れるのか?ということも、不思議と理にかなっているように見えてきました。

 

 人生は面白い。