(前回からの続き)
4日目、朝一番のワークをグループ全体でやる。
ある動物になって、いろいろなことを表現する。
その中で、「周りに委ねて」と言われたときに、ふと気がついた。
「あれ?私全然リラックスしていない・・・委ねるって何?」
周りに自分を預けることができていない。それに気がついたら、ぐるぐる頭が考え始め、ますますからだの感覚から遠ざかり始めた。
「信頼して委ねる」そんなことはわかっていたはずだった。それが大切だってこともわかっていたつもりだった。
けど、私のからだは全然わかっていなかった。
何なの?このズレは?
わかっているつもりのことが実はわかっていなかった。ということはよくある。
私にとって、それは少し興奮することだった。未知との遭遇は、気分が高揚する。
「委ねる」ことを知らない私のからだを見つけたときは、なぜかちょっとショックだった。
「え〜、私知らなかったの??」
そして、その体験は予期せず訪れた。
3人組でワークしたとき。
「委ね」が全然関係ないテーマで、私はクライアントとしてワークした。
副交感神経〜交感神経の波を体験したあと、深い副交感神経状態に潜っていった。
呼吸はますます深くなり、その深い呼吸を何度も繰り返し、からだも安心感でゆったりなったとき、頭の中心がふっと緩んだのを感じた。その感覚は初めてのものだった。
「これが『委ねる』ってことかも」と緩んだ頭を感じながら、思った。
それはとても心地よく、平和なときだった。
わたしの細胞たちが記憶するように、しばらくそのときを味わっていた。
その状態で「いる」私を楽しんでいた。
記憶は、交感神経と副交感神経の波の深い部分に蓄積されるそうだ。
で、その波のある時点で嫌なことがあったとする。嫌なことは記憶として残る。
後日、あるとき、交感神経もしくは副交感神経が嫌な記憶が保存されているところと同じ深さに達したとき、その記憶は浮上してくる。
思い出したくない記憶の場合、それに触れないため、無意識に交感・副交感の幅を狭くしてしまう。
より狭くなった幅で生きるので、ストレス耐性も低くなってしまうらしい。
ワークの中で、自分の波もいろいろな人の波も体験した。人それぞれ固有のリズム。
その波に耳をすませていると、ふーっと現れる瞬間がある。存在すら忘れられていた記憶。
昔知らぬ間に殺していた自分。
あなたも私の一部なのに、忘れててごめんね。やっと会えたよ。
そうして、私は少し新しい私になり、少し大きな私になった。
京都から帰ってきて10日ほど経ったある日、電車に乗っていたら、ある声が上ってきた。
「もう闘う必要はないのだ」
顕在意識は???で、「何と?」「誰と?」と理性的な質問がいっぱい出てきたが。
私のからだは、あのとき体験した「委ね」の感覚になっていた。深い安堵感。晴々とした平和な状態。
私の細胞たちは既に「委ね」を覚えているようだ。
「よかった。覚えていれば大丈夫だ。」根拠なく、確信した。