一香堂(ひとかどう)の身辺雑記

人生面白がろう😆一香堂はり灸師@神楽坂の雑記帳

見えないもの

もし、赤ちゃんが日記を書いたら』という本を読んだあとは、なぜだか「死」に関する本を読んでいた。

エリザベス・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間-死とその過程について 』。

 ●『死ぬ瞬間-死とその過程について 』は、病院での末期患者やその家族へのインタビューを中心に「死とその過程に関するセミナー」について書かれている。ここでは、広く知られている「死の五段階」説についても論じている。

「いかに生きるか」と同時に「いかに死ぬか」。

患者たちは、医師とのインタビューで自分のことを話し癒される。自分たちの要望が、今後のターミナルケアの参考になるということで、今の自分の存在が役立っているのだと実感する。

医師や看護士などケアをする側の反応も興味深い。
死に対して拒絶ともいえる反応をするのは、患者のことを心配しているという態度を示しつつも、実は自分自身のなかに、死への恐怖があったりする。
そして、この問題に対して正面から向き合い受け入れた途端、末期患者への対応も変わるという。

患者、家族、医師、スタッフそれぞれが、ネガティブと思って話さなかったことを思い切って話す。死そのものを忌み嫌うのではなく、真剣に考え見つめる。
そのことで、お互いがより分かり合え、結局は影をなくす。

このようなことって、日常にもあることだ。
相手のことを氣遣って遠慮して話さない。でもそれって本当に相手のことを思ってる?
実は、自分のなかの否定的なものを見たくなかったり、それを認める勇気がなかったりすることってあるよなぁ。
実は自分が、勝手に悲劇ドラマを作り上げていただけだったり。

それぞれの章の始めに書かれているタゴールの詩の一節が美しくていいのだわ。

そして、ディーバック・チョプラの『ライフ・アフター・デス―死後の世界と魂の奇跡』。

●『ライフ・アフター・デス―死後の世界と魂の奇跡 』は、タイトルどおり死後の世界のことを述べつつ、魂のことを書いている。

チョプラは、目に見えないものを信じないという懐疑主義者を説得するように、かる〜く量子力学のことや医学のことにも触れ、そちらの視点も含めてインド哲学も語る。つうのが私のチョプラ大好きなところ。

特に面白かったのは、第2部の「チョプラによる立証」。
最近は脳ばやりで、精神状態も臨死体験も脳が作ったものだと言われるかたも多々いる。

チョプラは、第14章「脳の外で考える」のなかで、精神や知性は脳以外のところに存在する、と書いている。
あるアメリカの科学者チームは、「脳が精神を作り出している」という従来の科学的説明の欠陥を指摘し、その反対の「精神が脳をコントロールしている」という説が妥当であると提案しているそうだ。
「脳細胞は、意思や意図に柔軟に反応し、変化していくという考え」。

数年前までは「神経は再生しない」というのが定説だった。私もアロマを勉強したときに、解剖学でそう習った。
でも、今や、神経の可塑性は証明されているわけで、脳の前に精神があるという考えは俄然真実味を帯びてくる。

脳は、自ら考えているのではなく、精神の場にアクセスして反応しているというわけだ。

科学とスピリチュアリズムは、お互い遠く離れていた。
科学は進歩し、今まで測定不可能だったものが可能になってきた。
そして、霊能力、祈りの力が、そのおかげで数値化されるようになってきた。
ますます、科学とスピリチュアリズムは、今までの矛盾を消しあうように近づいていくようになるだろう。

チョプラは「死は奇跡だ」と述べている。
「生と死は永遠のダンスで結ばれて」いて、「このダンスから死を除いてしまえば、破局が訪れる」だろう、と。

死を見つめると、肉体ではないもの、魂、霊といった目にみえないものを考えざるをえない。
そして、からだだけが自分ではない、と思うのだ。
「大切なものは、目に見えない」
見えないから、存在しないってわけではないよね。