一香堂(ひとかどう)の身辺雑記

人生面白がろう😆一香堂はり灸師@神楽坂の雑記帳

ダイアログ・イン・ザ・ダーク

今年の8月31日に、ダイアログ・イン・ザ・ダーク(DID)の外苑前会場がクローズするというニュースを聞いて、ようやく行ってきました!

www.dialoginthedark.com

DIDのことは、4、5年前にある友人から聞いていました。

光のない世界、暗闇の世界ってどんなだろう?

その世界を、盲人の方のアテンドと共にグループで体験していくのですが・・・
「目の見えない人の世界を体験する」なんて言葉がぶっ飛ぶ、面白さと楽しさと開放感と優しさと温かさとetc.・・・濃密な90分でした。

いや〜、体験ってすごい!感覚ってすごい!

 FBにも書きましたが。。。

一つの感覚を失った状態なのだから、不自由感とか、喪失感とか、欠乏感とか、そういうものに満ちた世界だと思いがちじゃないんですか。

でも、何だろう?
この満ち足りた感じ。無限な感じ。フラットな感じ。いろんなものが落ちてゆく感じ。開いていく感じ。そして、一体感と存在感。

本当に見えていないのは私たちの方ではなかったか?
単に見ていたつもりになっていたのでは?
「つもり」になっていたので、いろんなものをいっぱいこぼしていたのでは?

「見る」のは「目」だけではない。
と鍼をやっている私は、知っていたはず。。だけど、本当は知っていなかった。

この五感が変容する感じ、常識が覆る感じ。

言葉が有限すぎて、もどかしく虚しく感じる(笑)

やっぱ、この世は体験ですね!

予約取りにくくなっていますが、ぜひ体験してください!
大阪でも、6月19日までやっています。大阪の方がチケットあるっぽいですね。

 

人生は面白い。

映画『わすれな草』観ました

映画『わすれな草』見てきました。

認知症になった母親(グレーテル)を通して、家族がもう一度家族になる。

今まで「妻」「母」と思っていた人の記憶が、混濁し薄れボツボツと無くなっていき、段々とそうでない人に変わっていく。その過程の中で、家族は戸惑い、悲しみ、抵抗し、諦め、受け入れる。
認知症になったことから、初めて知る妻の氣持ち、自分が生まれる前の父母に出会う息子。

慣れ親しんだ人が別人になっていく様は、病だと頭ではわかっていても、切ない。悲しい。

グレーテルは、おそらく、認知症になることでしか表現できない何かを持っていた。
もう自分も忘れてしまった大昔の何か。忘れてゆくうちに浮かび上がって来た何か。
それらは、表現されたがっていて、ずっと待っていたのかもしれない。

認知症になったおかげで、彼女は本当に自由になったのかもしれない。

やっぱり、最後は「愛」か。結局それか…

なんでも「愛」って持ち出す自分に少しの居心地の悪さも感じつつ・・・
でも「愛」、なのだ。

「愛」という言葉は使い古され消耗され、薄っぺらな響きを感じつつ・・・
でも「愛」、なのだ。

浅くて深くて、鋭くて大らかで、俗から聖まであらゆるものを包含している。

だから、形は一つだけじゃないし、正解も一つだけじゃない。
と、「愛」は教えてくれるのだ。 


映画『わすれな草』予告編

私の祖母も、晩年は認知症が出て寝たきりになり、最期まで自宅で過ごしそこから死にゆきました。

自宅で介護し看取るには、今の核家族主体の構成では難しいことの方が多いでしょう。介護を、家族内だけの問題にするにはあまりにも大き過ぎます。

とはいえ、「家の中」という生活の場で生死老病があることは、大事…とも思っています。

当時高校生だった私は、母が主に担っていた介護に積極的に関わっていた、とは言えません。
それでも一つ屋根の下にいたことは、確実に私の生活の一部になっていて、私の「いのち観」に深く織り込まれています。

病の匂い、人のいのちの火が衰えていく氣配、いのちが去った後のからだの感触、周りの空氣。。

それらは「忌むべきもの」ともされる場合がありますが、その奥に流れる循環、この世と「あの世」と呼ばれる場所を流れる循環の感覚を、私にたくさんもたらしてくれました。

映画の終わりに、娘とその息子(孫)二人が、いのち消えゆくグレーテルに、スープか何かをスプーンで飲ませているシーンがあり、二人の孫は「次は僕がやる」と自然に、そして少し楽しげに、おばあちゃんの口にスプーンを運んでいました。

そして、子どものような笑顔の母親グレーテル。

言葉で括るのは不可能で、言葉を超えたところでつながるもの、それがいのちなのかな…

静かな涙と温かい胸とともに、映画館を出ました。

 

そういえば、今年に入って観たドキュメンタリー映画はどちらもドイツ語だ。
こちらの『わすれな草』と『0円キッチン』(『0円キッチン』は英語ナレーションですがドイツ語の部分も)。

 

人生は面白い。

前世療法で鍼?!

先日、今更な感じはあったのですが、シャーリー・マクレーンの『アウト・オン・ア・リム』を読み、ま〜これはこれで面白かったのですが・・・

その後連続して読んだ『ダンシング・イン・ザ・ライト』が、ツボリました、今の私に。

その最たる理由は、「鍼」です。

なんと!シャーリーは、鍼を使ってサイキックセラピーをするというクリス・グリスコムのところに行くのです。クリスは前世療法に鍼を打つのです。

鍼で前世療法?!
ビックリです!雷に打たれました!ビビビビビ〜〜〜ンン!!!です(なんのこっちゃ)。

クリスは、指導霊とコミュケーション取りながら、オーラの状態も見ながら、鍼を打っていました。ま〜、彼女はサイキックなのですね。

そのような鍼が私にすぐできるかは別として…鍼の可能性に関する私の認識が、ドッド〜ンと広がったのです。

肉体 (Physical) 及び精神 (Mental)レベルに対する鍼の効用は感じていました。が、魂 (Spritual)レベルに対しては間接的な影響だろうな〜という風で、うすらぼんやりしていました。(こちらは私の妄想wですので、証拠はありません。ご了承ください。)
しかし、ですよ。前世療法できるんだったら、魂レベルに鍼が働きかけている!ということですよ。
ほんと、ズド〜〜ンですよ!(意味不明な擬音語…)

認識が変わると世界が変わる、と申しますが、まさしくそんな感覚の今週でした。

もちろん、鍼以外でいっぱい打たれた部分もありますよ!の中から引用します(強調は引用者追加)。

「(略)体は何から何まで覚えているからよ。魂の刻印はあらゆる細胞一つひとつに押されているの。(略)よいとか悪いとか判断せずに、自分の体験をそのまま受け入れた時、私達はさらに高次の理解の下で行動を始め、波長も高くなってくるのよ。体と心と魂が、こうして一体化し覚醒するの」 (p.355)

「(略)体こそ、なぜ私達がこの地上、つまり質量の次元、経験の次元に存在しているかを知る鍵なの。体は決して嘘をつかないでしょ。病気の時も心配している時も、痛みを感じている時も、ちゃんと教えてくれるでしょ。体はなんでも知っているのよ。私達は、十分体に耳を傾けていないのね。(略)」 (p.356)

ワイルダー・ベンフィールドという有名な神経外科の研究者によれば、(略)心はどこにもかしこにも存在しているーー筋肉にも、組織にも、細胞にも、骨にも、器官にも、存在しているのだという。体の中には、心とその他の意識の分離はあり得ない。すべてが一体なのである。 (p.374)

一番大切な愛とは、自分自身を許し、一人ひとりが自分自身の存在そのものと恋に落ちるということなのだ。(p.427)

死そのものが問題なわけではない。それは、体験するための手段ー肉体ーを奪い取るということ、つまり、最大の宇宙的な罪なのだ。神へ達する唯一の道は、地上における肉体に生じるカルマ的な体験なのである。他人を殺すということは、魂が神を発見する機会を奪い去ることなのだ。 (p.428)

「(略)求める、ということは、完全の中の一部なのです。そして、我々が住む不完全の世界には、常に調和への追求があるのです。それこそ、我々が不完全な世界に住む目的なのです。不完全であってこそ完全なのだというパラドックス(逆説)なのです。(略)」 (p.436)

「体の痛みはすべて」(略)「それに病気も、まだ解決されずに残っているカルマの不純物なのだよ。そのカルマが何かわかると、体内のエネルギーが自由に流れ始めるのさ。カルマから自由になればなるほど、体の痛みも病気も無くなるのさ」 (p.445)

「悟りはどんなに卑劣に見える人でも得られるものなんだよ。一人ひとり、その人に必要な魂の戦いをしているのさ。他人のことはわかりもしなければ、ましてや非難や批判なんてできるものではないのだよ。宇宙の一つひとつの魂が神の一部なんだからね」(p.446)

「どうしてあなたに、クリストファーに肉体の中にいて欲しいという権利があるのですが?彼にはあの世でやらなければならないことがあるのですよ」
(略)
「彼は決して死ぬわけではないのです。彼のペースで彼の道を行かせてあげなさい。誰も、他の人のしていることやその理由を、本当の意味で理解することはできないのです」 (p.451)

こちらの本『ダンシング・イン・ザ・ライト』 ですが、そういえば、ビョーク主演の映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』好きだったな〜、と思い出しました。
ちょっとタイトル似てない?

 

人生は面白い。

田んぼデビュー

20(土)、21(日)と、千葉県館山の浜田地区へ行ってきました。

友人ご夫妻がやっている田んぼで田植えやってきました!田んぼデビュー㊗️

blog.manahouse.jp

その田んぼは、無施肥、不耕起の自然栽培3年めです。自然栽培の田んぼ、初めて見ました。
不耕起=耕さない、ってことです。普通の田んぼだと、田植え前に耕運機で、土と一緒に生えている雑草も掘り起こされます。それがないので、草は手でむしるか鎌で刈るのです。一見草っ原で、私が知っている「田んぼ」風景とあまりに違うので、最初は少々面食らいました。

が、ご主人のお話を聞いて、なぜ友人ご夫妻が「不耕起」という選択をしたのか納得しました。
土の中にも微生物が住んでいて、土の表面に近い方、深い方ではそこに住む微生物たちも違うんですね。それで生態系が保たれているので、それをあえて壊さない。
私たちの腸内フローラと同じですね!

友人が話していたように、彼らの田んぼはとてもいい場所にあります。
ちょうど海と山の間。そこには、ミネラルたっぷり含んだ海からの風が吹き抜け、田んぼの水は、これまたミネラルいっぱいの山からの水を貯めている溜池から引いてくる。海山両方からの恵みで、土も育ち、その土と空気の中で稲たちが育つ。

 「喜びのために田んぼをやっている」と友人は語っていました。
東京在住のお二人が、仕事の合間を縫って、この地に出向いて田んぼをやっている。
この意味の深さとデカさを、現地に来て、ひしひしと感じました。

実際自然栽培で米を作ってから、慣行栽培をする人の氣持ちもわかった、とも言っていました。農薬を使いたくなる氣持ち、除草剤を撒きたくなる氣持ち。

私もお米を買うときは「無農薬」かつ「不耕起」のものを選ぶことにしています。当然お値段は違います、慣行栽培のものとは。
あれだけ手間暇かかるんだから、そりゃ高くなるわな〜。そしてやっぱり、作る方の信念というか意思がないと、自然栽培はできないだろうと思いました。

話は飛びますが、私、米はササニシキ派なのです。
そして、自然栽培のササニシキって少ないのです。
それって育てるのが難しいからなのかとずっと思っていたのですが、ご主人の話によると、そんなに育てにくい種類というわけではないそうです。
単純に人氣がないのでしょうか…やっぱりもちもち系が人氣なのかな〜。

私の願いが通じたのか(笑)、今年からササニシキを植えることにしたそうです(今年は種取り用なので収穫は来年)。
好きなササニシキの田植えもできて、テンション上がりました!
みんな元気に育ってね❤️

こちらの田んぼ、車なくても行けます。徒歩5分の所に最寄りのバス停があります(本数は少ないけど)。日帰りも可能です。

館山の恵みを堪能するには、泊まりがけが断然イイですけどね!

今年の田植えは、以下の日程でやられるそうです。「田植えやってみたい!」という方、ぜひ連絡とってみてください。

田植えは27日、28日、そして6月3日、4日に予定しています。その間もコツコツとやってゆきますので、ぜひ!ご参加ください(^。^)

特に男子力!土木関係のサポーターも熱く募集中です!!

今後の田植えフェスの参加については下記の通りです。

参加ご希望の方はメールにてご連絡下さい。
info☆manahouse.jp(青木:☆を@に変えてください)

*日程*
5月26日(金)〜 28日(日)
6月3日(土)〜 4日(日)

田仕事の時間はだいたい10時前後から16時〜17時です。

*場所*
館山市安房浜田地域

東京駅八重洲口、または新宿バスタより高速バス「なのはな号」にて館山駅を経由して最寄りのバス停まで直行できます。)降車停留所『浜町』ここから田んぼまでは徒歩5分。

http://time.jrbuskanto.co.jp/bk04010.html

田んぼでアースしよう! 

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人生は面白い。 

破れた心は、開いた心

前回書いた本、『それでも、あなたを愛しなさい』の最初に出てきます。

悲しみで破れた心はまた、大きく開いた心でもあります。(p.3) 

 「大きく開いた心」には、いつもよりたくさんのものが入ってきます。

 

2003年にフィンドホーン共同体の体験週間に参加したときのこと。

体験週間では様々なワーク(セラピー的なのも含め)をやるのですが、何日めかのワークでとても印象に残っているものがあります。

ペア・ワークです。
一人が「愛」になって相手に愛を送る役、相手の人は確か「辛いときの自分」を身体で表現する、だったっけ?(違うかも。。忘れました)

私が「愛」の役になったとき、相手の方は背中を丸めて亀のように固まっていました。
「愛」の光の私は、すぐ側に「愛」がいることをどうにかして氣がついてもらいたいのですが、相手は閉じこもったままでした。
優しくタッチしたりして、「氣づいて」サインを送りましたが、相手は変化なく、じっとしたまま。力を強めて、相手の甲羅を開こうとすれば、ますます体を硬直させ、悪循環。。。

そんな姿を見たとき、ふと浮かびました。
「いつぞやの私も、こんな風だったのでは・・・」

私が閉じていると、全然氣付けないんだ。
こんなに近くに「愛」があったとしても、開いていなければ存在すら氣がつかない。
たとえいっぱい愛が私に降り注いでいたとしても、私が受け取ろうとしなければ、それは私の中に流れこんでこない。

「こういうのをイジケている、っていうのかな」

何の助けも救いもなく、見捨てられたように感じたら、それは私が閉じている、というサインなのかもしれない。

ってね。

悲しみであなたの心が破れたように感じたら、それは、愛がいっぱい流れ込んでくる前兆なのかもしれません。

破れて開いた心で、受け取ろう!とただ決めればいいのかもしれません。

「愛をたくさん受け取るために、心が破れたんだ」
そう思ったら、破れた心の痛みが、また違うものになるかもしれません。

心が破けて開く。そして、そこが愛で満たされる。

なぜ破れるのか?ということも、不思議と理にかなっているように見えてきました。

 

 人生は面白い。

悲しみを癒す「アファーメーション」とは


先日ブログでも書きましたが、こちらの『それでも、あなたを愛しなさい』を読みました。

アファーメーションの本です。

でも、巷でよく言われている「アファーメーション」とはちょっと違います。私自身、今までの「アファーメーション」の認識を改めました。

巷で知られているのは、自己啓発系やビジネス系の、イケイケポジティブで推していく感じ(偏見混じってます)ですよね。
ネガティブな感情を感じたら、とりあえずポジティブなこと言っとけ!的な(はい、偏見入ってます)。

著者のルイーズ・ヘイ(Louise L. Hay)とデーヴィッド・ケスラー(David Kessler)が言っている「アファーメーション」は、「様々なタイプの不幸を体験した時に、それをどのように悲しみ、どのように癒すか」というためのもの。

本に出てくる「喪失」は多岐に渡っています。
失恋、離婚、不倫、愛する人の死、病気、自分の死、ペットの死、流産、不妊、失職、なりたいものになれなかった悲しみ、etc.

誰の人生でも起こること、これらを体験したとき、「悲嘆と苦痛にとらわれずに、あなたに充分に悲しみを感じてほしいというのが」、著者の思いです。
「悲嘆と苦痛にとらわれず」は「悲しんではいけない」ではないし、
「苦痛にとらわれず」は「悲しみの痛みを避ける」ではない

そうなのです。「感情をしっかり味わうこと」が大切だと、「悲しむ時間」が重要だと、説いています。

どんな感情も抑圧したり無視したりする必要はない、と。

エリザベス・キューブラー・ロス悲しみの5段階が引用されています。否定、怒り、取引、落ち込み、受容の5つ。

悲しいとき、これらの感情・反応は出てくるのは自然なことであり、それらを抑圧したり無視したりする必要はないということです。

抑圧・無視した場合、その感情は残ります。

精神科医エリザベス・キューブラー・ロスは、次のように言っています。
「私たちは怒りを感じ、それを通過させれば、2、3分でそれを終わらせることができます。」 彼女はさらに、15分以上感じる怒りは、古い怒りなのだと語っています。(p.5) 
その人が悲しむ用意ができていないときは、用意ができたときに悲しむために、そのまま残ると思います。今だめならば後で味わうのです。いつ味わうかはその人の選択です。そして、自分の悲しみを棚上げすることが必要な時期もあるのです。(略)どんな状況であれ、あまりにも長く棚上げされすぎた時がやってきます。その悲しみは古くなり、きちんと面倒を見てもらえず、怒り始めます。そしてその人の人生にネガティブな影響を与え始めるのです。でもそれがあなたの現実である必要はありません。(p.29)

 「アファーメーション」が働きかけるのは、感情ではなく思考・考え方です。
考え方が変わったとしても、感情は起こります。自然なことです。
でも、その感情に対する考え方、受け取り方は変わります。そして、私たちはそれを選択することができるのですね。

「私たちの思考は私たちの体験を作り出します」
「ひどいことは起こらない、または悲しみが事実ではない、と言っているわけではありません。私たちの思考が喪失という体験を形作るという意味です」
(p.22)
アファーメーションとは、悲しみが存在しない振りをするのとは違う(p.29)
苦痛や痛みではなく、愛を大切にしてほしいの(p.31)
私たちは常に選択できることを覚えていてください。(p.95)
もし、責めず、批判せず、あら探しせずに自分の過去を見つめる勇気があれば、あなたは自分の思考がどのように生じ、それがなんと言っているか、観察することができるでしょう。また、自分の行動の癖についても理解できるでしょう。(p.104-105)

「アファーメーション」は、新しい考え方を見につける「行動」でもあるわけですね。

「頭で考えて新しい行動を見につけるよりも、行動して新しい考え方を身につける方が易しい」(p.108)
「そうなるまでその振りをしなさい」という言葉の意味は、(略)頭と体と魂がすでに自分の中にある真実と一つになるまで、何かを行いなさいということ(p.109)

本の中には、様々なアファーメーションが紹介されています。

自分の中に響いたものがあれば、そのアファーメーションを、
または、今の自分にぴったりくるのを創作して、オリジナル・アファーメーションを唱えてみたら、いかがでしょう?

何かが起こるかもしれません。

ちなみに、今の私に響いた言葉はこれです。
アファーメーションではないのですが、自殺を止める命の電話で10年間ボランティアで働いていたデリックの言葉です。

3つの領域しかありません。私の前庭、あなたの前庭、そして、神の前庭です。できるのは私の前庭を清掃することです。電話をかけてくる人には、愛と尊敬と理解をもって受け答えし、しつも親切と同情をもって接しています。情報を受け取った人が、それをどうするかはその人の仕事です。誰が生き、誰が死ぬかは神の仕事です。それは神の前庭のことだからです。(p.218-219) 

 「平和の祈り」と似ているかな。

hitokadoh-aider.hatenadiary.jp

 

人生は面白い。 

ダブルバインド

NLPのコースを受講していたとき、同じ受講生のお一人に、
「山口さんと話していると、メビウスの輪が見える」
という意味不明のコメントをもらったことがあります(若干、不思議ちゃん系の方ではあったのですが)。

「それってわかりにくいってこと?矛盾しているってこと?」意味がわからず聞きました。

「う〜ん、矛盾というか、表裏一体というか、螺旋状に登ってったら元に戻るみたいな…そんな感じ。」
彼女は説明してくれましたが、わかったようなわからないような感じで、「そうですか…」と一応納得したような風で終えました(笑)

ちなみに、メビウスの輪ってこんな感じ。無限大∞の形でも描かれますね。

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どういう流れで、そんな話が出たのか、ぜんぜん覚えていませんが。。

NLPだから、ダブルバインド(心理学で言われているダブルバインドについて、詳しく説明されているサイトがありました。ご興味ある方はお読みいただくとご理解いただけるかと…)から派生した話だったかも。

で、ダブルバインドに飛びます。

こう言ってはなんですが、人は多少の差はあれど、ダブルバインド的メッセージを発しています。そんな意識は毛頭なくてもね(私からもダダ漏れていることでしょう)。

子供が初めて遭遇するダブルバインドは、親(養育者)からでしょう。

例にもれず、私も、親からいろいろなダブルバインドを受けてきました。
ここで強調しておきたいのですが、私がひどい育てられ方をした、という訳ではありません。

ダブルバインドは、混乱と矛盾を生みます。

そして、この社会自体が矛盾に満ちています。
また矛盾に満ちているように見えても、その先、奥底には、矛盾を超えた何か、ある種の法則性・統一性が流れているのも事実です。

私が思うに、親からのダブルバインドは、この矛盾に満ちた(ように見える)社会・現実を生きていくための洗礼ではないかと。

実際私は、親からのダブルバインドを通して矛盾を知り、その中でどう生きていくか、それをどう超えていくか、を学んだ、と勝手に結論付けています。

あ、でも、最初は無意識に沈んでいるダブルバインドを意識化しないとね。
氣づかないことには始まらないから。

時折、その人の存在自体が「ザ・ダブルバインド」って方もいます。そういう人からは距離をとりますね。それでも自分が壊れると思ったら。。。私は逃げます(笑)自分を守るために。

その人が幸せであるよう、遠くから祈ります(一回は)。

画像入れたけど「メビウスの輪」は関係なかったね(^^;

 

人生は面白い。