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hitokadoh姉さんの身辺雑記

鍼灸師、心に浮かんだこと、あれこれつづります。

披講初体験!

マドモアゼル愛先生の披講セミナーに参加してきました。

今回の披講セミナーは4回めだそうです。
披講のことを初めて知ったのは、愛先生のブログからでした。ずっと行きたいと思っており、今回参加叶いました


和歌を独特の節で詠うのですが、始めは「君が代」で練習します。
読み上げ、甲調、乙調それぞれで、何度も「君が代」を詠いました。

私たちが今「歌」と言っているものとは、ちょっと違います。
声の出し方も、いわゆる「歌を歌う」ときの声の出し方とは少し異なります。

誰かに聞かせるため、というより、音を届ける、伝える、捧げるという感覚に近いのかもしれません。
もちろん、歌(和歌)をお聞かせするために披講があるのですが、その歌に流れている感情とか思いは排除して、一音、一句を丁寧に届けるような感じです。
だから、「素」の声で詠うんですね。

一音を丁寧に発声すると、どうしても「母音」を意識することになります。
母音をより意識して発声していくと、音がますます響いてきます。

そして、ふと、この声が誰の声かわからなくなる瞬間があります。自分が発しているはずなのに、自分が消えるのです。

そういう瞬間は、披講に限らず、あらゆる場面で起きる可能性はありますが…
披講の場合、母音の響きによって、そういう空間が生まれやすいのではないかな、と感じました。

よく「母音には癒しの力がある」などといった言霊的な事柄が語られていますが、披講ではそれを体感します。
「母音は、自然と通じる、自然と一体になる力がある」と、愛先生も語られていました。


日本語って、ある側面、曖昧であり、非効率的であり、冗長的です。
だからこそ、そこに、「いのち」を宿している言葉なのかもしれません。いのちは、定義を超えたところに流れていて、効率など関係ありません。


披講の世界をほんの2日間だけ垣間見ました。
それだけでも、明らかに変化を感じます。

日本語の調べの美しさを体感し、日本語を話すことが嬉しく感じます。

世界のなかでは圧倒的少数派である母音言語の、日本語。
その言葉を、私たちは普段、普通に使っています。このこと自体が、かなり奇跡です

大切に、響きとともに、言葉を話していきたいですね。


披講の勉強会、こちらで定期的に開かれているようなので、継続していきたいです。

最後に、君が代の披講はこんなんです。

君が代 披講 (甲調、乙調二返)







人生は面白い。