数日前リツイートされたものを読んで、「いいね」しました。
多くのひとは「辞める練習」が足りてない。自分の意思で転校したり、部活辞めたりした経験がない。「自分で辞めるとどーなるか」って経験してないから、会社だってそりゃ辞めるの怖いよね。マレーシア人は「学校合わないな」と転校する。それが小さい頃の「辞めて結果を引き受ける練習」になるんだな。
— Kyoko Nomoto@KL (@mahisan8181) 2018年6月2日
反響が大きかったようで、つぶやいた野本響子さんが一連のツイートをまとめてくれていました。ぜひご一読ください。
note.mu
確かに「継続は力なり」なのですが、継続が惰性になっていないか?思考停止で継続していないか?奴隷状態で継続していないか?と自らに問うて、確認することは必要です。
「日本って〇〇だから」と乱暴なラベリングはしたくありませんが、でも…至極納得します。
「始めたことを途中で辞める」経験が足りてない人が多いと書いたら大きな反響がありました。自分の意思で何かをやめた経験がなければ、辞め方もわからない。「辞めないことを前提に作られた社会」では、辞める練習も難しいです。 https://t.co/FZ7Q3B3Ve3
— Kyoko Nomoto@KL (@mahisan8181) June 4, 2018
「社会がそうだから…」と言って、自分の意思で「始める」「辞める」を始めなければ、何も変わりません。”練習”が必要なのは明らかなので、結果を心配するより前に、まずは始めましょう。
・・・と、自分に言っています。
自分自身もそうだけど、周りの人たちが「辞める」ことを決断したときに、どう反応するか?どのように受けとめるか?、しばし考えてみました。
「もったいない」とか「もう少し様子見てみたら?」とか、反射的に波風立てない方向を向いていたかもしれません。特に、近しい人ほど。
自分の中にその人のいろいろなデータが蓄積されているほど、その人の変化を阻む傾向は否めません。その反応は脊髄反射的なので、「氣がついたら既にそうしていた」。
その人との歴史があればあるほど、「色めがね」は知らぬ間に出来上がり、その存在を知ることが難しくなります。
「今日の私は昨日の私とは違う」
「今日のあなたは昨日のあなたとは違う」
私たちの細胞は毎瞬毎瞬、生死を繰り返しているから、このことは事実です。より近しい間柄であればあるほど、このことを心に留めていたいです。
20年ほど前に「変わらないことは、『変わり続ける』ってことだけ」と聞いたときに、ものすごく驚きました。
そのころの自分は、「永遠」を固体のようなものと考えていたみたい。微動だにしない確固たるもの、として。
そんなんじゃ、呼吸もできないよね。
「始める」も「辞める」も、変わり続ける過程においてはあって然るべきもの。
しなやかに変化していく生命体でありたい、です。
人生は面白い。
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