自分が被害者であったことは、覚えているものである。
「傷ついた」「恥をかかされた」
普段忘れていたようでも、何かの瞬間に、過去の被害者モードが頭をもたげる。
一方、自分が加害者であったことは、同じ程度覚えているだろうか?
あるいは、加害者であったことなんてない?
「誰かを傷つけようと思ってことなんてない」という人もいるだろう。
しかし、傷つけようとか悪意がなくても、被害者はできあがるものだ。
親切と思ってやった行動、よかれと思って言った言葉。もちろん、その親切心は伝わる。
しかし、残念ながら伝わらない場合もある。
受け手が、自分の親切心からの行動・言葉によって、「傷つけられた」と感じるケースもある。
知らないうちに、自分が加害者になっていたりする。
だから、それを恐れて何もするな、ということではない。もちろん。
「自分は傷つけられてばかりだ」とか「自分は損ばかりしている」と被害者モードに入ったら、逆に「自分が加害者になったことはなかったか?」と問いかけてみてもいいかもしれない。
だから、ここで過去の懺悔をしろ、ということではない。
本当に相手のせいだけで、自分が被害者になったのか?と問いかけてみる。
実は、自分が被害者という役割を選んでいるのでは?
実は、その役割が好きなので、そういう状況を作りあげているのでは?
「あの人のせいで。。」「あんなことがあったから。。」
ある面ではそうかもしれない。
かといって、それが全ての理由だろうか?
そこに見たくない何かがあるのかもしれない。
そこに触れたくない何かがあるのかもしれない。
そこから逃げ出したい何かがあるのかもしれない。
何かのせいにする前に、ちょっと深呼吸してみよう。
ちょっと目を瞑って、それを感じてみよう。
もしもそこに、惨めな自分がいても、かっこ悪い自分がいても、ずるい自分がいても、弱い自分がいても、OKだ。
そんな自分に現れてくれたことに、ありがとうだ。
そんな自分に「ありがとう」と言って、ハグしてあげよう。
影が光に変わるだろう。
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と被害妄想の自分へ向けて書いてみた。
本田健さんが、「これからは資産管理より、思考管理が大切」と語ってらしたそうだ。
落ち込んだとき、それについて書くことは、よい思考管理の方法ではないかも。