hitokadoh姐さんの身辺雑記

人生は面白い。鍼灸師、あれこれ綴ってます。

運慶展行ってきました

こちらのTweetを見て、昨晩行ってきました「運慶展」。

unkei2017.jp

金・土は夜9時まで開館しています。結構お客様いましたね。

お寺より至近距離で見ることができて、迫力、躍動感たっぷりです!

全部じゃありませんが、横姿、後姿も見れます。横顔、背中もほんとお美しい💕坐像の背中から腰のラインを見ると坐禅の参考になるんだ、ほんとに。

筋肉フェチの方は点燈鬼立像 龍頭鬼立像をぜひ見てください!後ろ姿もグルっとチェックしてください。

展示には関係ないけど、音声ガイドの小野大輔さんの声が素敵で、何回も聞いちゃいました。声フェチは音声ガイド必需かと(笑)

目も耳も保養された夜でした。

 

人生は面白い。

ネガティブ・ケイパビリティを育てよう

 ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』 

今まで漠然と認識・理解していたものが、それをぴったり表す言葉に出会うと、途端に生き生きと息づいてくる瞬間ってありますよね?
今までモヤのようだったものが、しっかり輪郭を帯びて、自分の世界の中で存在を主張し始めてくる。

この本のタイトルになっている『ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)』もそんな言葉のひとつ。

この言葉を生み出したのは、詩人のキーツ

キーツは、シェイクスピアが「ネガティブ・ケイパビリティ」を有していたと兄弟宛ての手紙に一度だけ書きました。「それは事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力」を彼はそう表しました。

キーツは、真の創造行為にはネガティブ・ケイパビリティが欠かせないと氣がつきました。彼自身も「『私が発する詩的言語は、一語たりとも私の個人的な性質から派生したものではない』と断言し」ています(強調は引用者追加)。

「私が部屋の中で他の人々と一緒にいるとき、自分の脳が創り出すものにはとらわれず、私自身を私に帰さずにいます。すると同席しているひとりひとりのアイデンティティが私に迫って来て、ほんの一瞬、自分が無になるのです」。 (p.145)

創作活動がエゴの部分から為されたことではないことがわかります。

創造(ラテン語でcreatio)の原義はto bring into beingで、「(無からこの世に)存在させる」です。まさしく、神の業だと言えます。つまり創造行為は、人間が神の位置に立って、無から有を生じさせる営為なのです。 (p.141)

無から生み出す、とよく聞きますが、その「無」は、単に物質的に「無」ということだけではなくて、もっと深遠なことも含んでいるようです。

その後このキーツの言葉に唯一注目したのは、精神科医精神分析医のビオンでした。

精神分析に限らず、人と人との出会いによって悩みを軽減している精神療法の場において、ネガティヴ・ケイパビリティは必須の要素だと、ビオンは考えたのです。(p.38)
つまり、不可思議さ、神秘、疑念をそのまま持ち続け、性急な事実や理由を求めないという態度です。(中略)
ネガティブ・ケイパビリティが保持するのは、形のない、無限の、言葉ではいい表しようのない、非存在の存在です。この状態は、記憶も欲望も理解も捨てて、初めて行き着けるのだと結論づけます。 (p.58)

現代教育は「ポジティブ・ケイパビリティの養成」、「平たい言い方をすれば、問題解決のための教育です。」全部が「早く早く」の世界です。

問題解決力があれば大丈夫、と思われがちですが、実は「解決しなくても、訳が分からなくても、持ちこたえていく」ネガティブ・ケイパビリティがあるかどうかが、それ以上に大切なことです。

著者の帚木蓬生氏は精神科医でもあり作家でもあります。
ネガティヴ・ケイパビリティを、文学の側面から、治療の側面から、教育の側面から、宗教の側面から、政治の側面から、語っておられます。

治療家の端くれとして、私も実感するところ多々ありました。

いのちあるものと対峙するときには、ネガティブ・ケイパビリティは必ず必要です。「我を忘れる」や「委ねる」は、ネガティブ・ケイパビリティのある状態ですね。
そこに大いなるものが流れこむ。

「ネガティブ」と言っていますが、大いなる視点からみると、逆にポジティブなんじゃないでしょうか。ま〜、究極的にはポジもネガもないですけどね。

 

人生は面白い。

雑居まつりにて

昨日初めて行ってきました雑居まつり。
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昨日のFB投稿。

普通に考えて、私より小学生の彼らの方が余命は長い。

となれば、汚染された土、水、空気の影響をたくさん受けるのは、彼らの方。

何もしてなくても、いや、何もしていないからこそ、私たちは既に彼らの加害者だ。知らないうちに。

オトナの私が、できること、一つはあるはず。
大きい小さいは関係ない。今やれること、一つずつ一つずつやり始める。

やり始めれば、何かが始まる。やらなければ、何も始まらない。

彼らの声を聞いて、少し切なくなったおばちゃんでした。

 

人生は面白い。 

先月「姉さん」→「姐さん」にこっそり変更した件

前回の「いつまでが女子」から派生して、
hitokadoh-aider.hatenadiary.jp

当ブログのタイトル「hitokadoh姐さんの身辺雑記」にも使っている「姐さん」についてです。

はてなブログに移行したときに、ブログ名も変更しました。以前は「エデの日々」でした。「エデの日々」で検索かけると「エデンの日々」が出てきてました。「エデ」はアロマをやっていたときに使っていた”アロマネーム”(なんてものがあるか知らんけど)。

実は当初、”ねえさん”は「姉さん」を使っていましたが、先月こっそり「姐さん」に変えました。

先日の「女子」問題同様、自分で名付ける際に、オババが「姉さん」と名乗ってもいいのだろうか?という問いが脳裏をかすめたことはかすめたんですが…
事実二人の弟の姉なので、問題なかろうと結論づけました。漢字もあまり考えずに「姉」に。

それが、なぜ「姉さん」を「姐さん」に変えたか?

おそらくきっかけは、8月にあるグループツアーに参加したときのこと。
ツアーって、初めは初対面だったのが、数日寝起きを共にしていると馴染んできて、初対面の堅苦しさがなくなっていきますよね。
その馴染んできた感が蔓延した3、4日め、私はある方に「ねえさん」と呼ばれ始めました。「ねえさん」と呼ばれることに違和感はないのですが、どう見ても、その方は私より年上。ま〜数年の差でしょうが。

確かにねえさん氣質であることは否めず、いろんなところで弟でも妹でもない人たちから「ねえさん」と呼ばれてましたので、呼ばれ慣れています。
…けど、多分、明らかに年上だろう方に呼ばれたのは初めて。
それは、相手の年代に関係なく、自分が「ねえさん」キャラであることを発見した瞬間でもありました。

そのツアーも楽しく終わり、そんなことがあったことも忘れてました。

そして、突然やってくる「氣になる」。「姉さんと姐さんの違いは何?」

まず、ググりますわな。
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

「姉」は血縁、もしくは法律的に家族と認められる範囲が主な意味合いらしい。

ということで、先月「姐さん」に変えました。
読み方は「ねえさん」です。くれぐれも「あねさん」と呼ばないようお願いします。

前回登場した漢辞海(第三版)(注:漢語辞典のため、日本語用法とは異なります)も参考のため見てみましょう。

姉:❶あね。年長の姉妹。女性に対する継承。❷母親。はは。

姐:❶両親またはその一方が同じである姉妹のうち、年長の女子。あね。❷親類やその他のかかわりをもつ同年か年長の女子に対する一般的な呼び方。❸同じ年ごろの女子に対する一般的な呼称。❹母親。はは。 

「姐」の方が細かいですね。
さらに「姐」には形容詞的語義があり、「わがままにふるまうさま。勝手なさま。」だって!!

やっぱり「姐さん」で正解でした。

 

人生は面白い。 

「いくつまで女子」問題

前回ブログに関連して「女子とは 何歳まで」とググって見ると、ありました〜。
いつまで「女子」と名乗っていいのか迷いがある方、多いのですね。

news.livedoor.com

youpouch.com

女性の方が、境界線年齢が高いですね。
www.athome.co.jp

NHKさんも書いてた。
www.nhk.or.jp

「女子」についてる「子」が線引きをしている訳ですよね。

そこで「子」という漢字を唯一手元にある辞書、漢辞海(第三版)で調べてみると、「子どもや子孫にかかわることを表す」とのこと。

第一義としては、①こ。(こども。むすこ。むすめ。動物のこ。)。

そのほかには、②人。③尊称(先生。師に対する尊称。(「孔子」はこれに当たる)。男子の尊称。)。

そういえば、日本の名前でよくある(今は少数派かしら)「〇〇こ」。
昔は「〇〇こ」はこどものときの名前で、大人(元服)したら名前を変えるのが普通だったそうな。
昔のおばあさんの名前に「ミツ」とか「サダ」とか「ウメ」など「子」がないのは、その名残。ミツさんはミツ子ちゃん、サダさんはサダ子ちゃん、ウメさんはウメ子ちゃんだったのです。
男性の名前に使われる「彦(ひ)」も、本来はこども時代限定の名前だったそう。

とすると、10代までは「子」を使っても全く違和感ないですか。
私は、自分より年下には「子」を使っているかな、無意識に。

おばさんが「女子」と自分のことを呼ぶ場合は、自虐ネタなんじゃないかな?
だから、痛いのは当然かと…逆に、痛いのがいいぐらいな勢いで。
なので、「しょうがないな〜」と温かく見守ってください。

もし「死ぬまで 私は"a girl"よ!」(ここは英語ですが…そういう知り合いが実在したため)と真剣に思っている「女子」がいたら、ごめんなさい。

 

人生は面白い。 

はてなブログは世界多様性の窓

昨日こちらを書いたあと、「世間体」って奴を捨てたはずの私が、ふと「世間体」を思い出しました。
hitokadoh-aider.hatenadiary.jp

「2017年後半のかなりの部分が國分功一郎と般若心経」って、女子力ゼロだわ…。

書いたときは「これだわ!キラリーン✨」とひとり悦に入っていたんだけど。

ちなみに、ここで「女子力」とか使ってますが、疾うに使用範囲から外れているオババなので、そんなこと心配ご無用!だと百も承知なんですけど…それは置いといて。

ずっとgooブログだったのを、今年2月にはてなブログに移行しました。
hitokadoh-aider.hatenadiary.jp

移行した理由は、当時ヘビーリーダーだった(今も時々ちゃんと読んでます)いばや通信がはてなブログで、シンプルスッキリなテンプレートがいいな〜と思ったからです。

ibaya.hatenablog.com

移行後は、はてなブログTopページを良く見るじゃないですか。
hatenablog.com

そして、そこに出てくるおすすめ記事を読んだりするじゃあないですか。gooブログのときは、同じgooだからって理由でブログを読むことはなかったのですけどね。

すると、本当に、いろいろな人たちがイロイロなことを熱く(あるいは淡々と)綴っているな〜と実感するわけです。
おすすめ記事に載ってくる記事も、ガチオタクっぽいのもありーのインテリジェンス系もありーの、カラーがイロイロ。なので、面白い。はてなブログには、世界多様性の窓が開いているのです。

そんな訳で、女子力ゼロ(再度言うが、「女子」とは言い難いのは百も承知)色半端ない、自分に若干愕然としつつも、ま〜それも私のカラーだ、と思うのでした。

はてなブログ、万歳!

 

人生は面白い。

面倒くさい私に哲学は必要

総括するのにはまだ早いですが、私の2017年後半はかなりの部分、國分功一郎と般若心経でできています。

7月に國分功一郎氏の本を読み、久々に「あ〜哲学って面白いわ〜」と再確認した私。 

hitokadoh-aider.hatenadiary.jp

今、『中動態の世界 意志と責任の考古学』読んでます。

ミニマリストを地味に目指している私は、なるたけ本は図書館で調達しています。
この本も、『暇と退屈の倫理学』を読んだ直後に図書館で予約しました。先日、長い長いウェイティングリストの順番がようやく回ってきて、読み始めたのでした。
半分くらい読んだところで、「これは買わなきゃ!」と本日、本屋へ。

読んでいるうちに、うすらぼんやりしていたピースが自分の中でハマりはじめ、「これがわかった」といった具体的なものではないのだけれど、自分のウチがすーっと霧が晴れて行くような感覚を感じた。
この感じ、10年くらい前にケン・ウィルバーを初めて読んだときもあった。かつて存在していた、能動態でもない受動態でもない、中動態。

その「失われた『態』」の視座で、能動か受動かしかない今を見ている、定義し直してみると、新たな世界が浮かび上がってくる。その世界が生まれてくる瞬間、ウチは時がなくなり無音になったあと、じわじわと静かな高揚感(?)で満たされてくる。

自分のなかに新しい宇宙が生まれた、感じ。

一方、本を読みつつ高揚している自分を皮肉る自分もいる。

意志がどこから始まるか、なんてどうでもよくない?
自発的であろうが非自発的であろうが、同意は同意じゃない?
これを知って何になるの?
これって生きるのに必要なの?

ランダムに浮かんできた最後の問いに、ふと我にカエル。

うん、少なくとも私には必要だ。
…と、はっきりした答えが返ってきた。

11歳の夏休みに「なんで私はここにいるんだろう?なんで生まれてきたんだろう?」と裏山に問いかけていた、私には必要だ。

中学のとき突然「私が見ている赤(別に何色でもいいんだが)と他の人が見ている赤とは違うかもしれないのに、同じ赤って言っていいんだろうか?」と氣になり始めて、どうやって伝えたらいいか数日途方にくれた、私には必要だ。

"How are you?"という挨拶に"Fine.", "I'm OK."とか答えていたのだが、ある日「今の私は"Fine"というほどFineじゃないんじゃないか?何をFineというのか?」とわからなくなり固まった、私には必要だ。

こうして書きながら、自分の面倒臭さに辟易もしています。
とはいえ、それらを面倒くさいからと言って無視することもできない(無視すると何かが死ぬ)

この面倒くさい私が、この世の中で生きる為には、哲学の類は必要なのです。

別に哲学で救われる訳ではない、のですが、息をしやすくなる、のです。

そして、面倒くさい私のことも好きになるのです。

さらに、こんな面倒くさいことを考えられる、ことは一つの幸せなんだ、と氣付かせてくれるのです。

 

人生は面白い。