一香堂(ひとかどう)の身辺雑記

人生面白がろう😆一香堂はり灸師@神楽坂の雑記帳

私が言う「いい子」ってどんな子?

先日のブログで取り上げた東洋医学分野から書かれたものがあり、共鳴する表現が多々あったので。

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医王会指圧センター所長(当時)増永静人氏が書かれました「母と子の関係ー東洋医学の立場から」。増永氏は、独自の経絡指圧(ZEN SHIATSU)創始者です。

この本では、指圧臨床を通して子どもの蝕まれゆく状態への提言を語っておられるのですが、鍼灸師の私にとっても非常に参考になりました。

以下は「切診」の重要性について。少し長いですが、引用します(強調は引用者が付与)。

(略)指圧をただ指で押すものと思わせたのはテレビなどの罪で、本当は漢方診察法の「切診」といって、手指で患者を診る方法が基本なのである。どんな患者でも、診察をせずに治療はできないし、その診察の中で最も大切なのは、患者の肌に触れる「切診」なのである。このことが現代医療から忘れられて久しい。科学的な医療は、客観的な判断や正確な数値を重んじて、人間の主観に動かされるものを遠ざける傾向がある。そこで患者の観察を機械器具に任せて、直接自分でみようとする医者が少なくなった。患者に手を触れてみようともしない医療が、人間同士の触れ合いを失って、人間関係が歪められるのは当然であろう。漢方や鍼灸ですら、自らの手で診断を下すことを疎かにして、客観的な病名や症状で施術をするようになってきた。

鍼灸についても苦言を呈しておられます。患者のからだをよく診ないで、「〇〇にはこのツボ」と自動的に鍼灸することを諌めておられるのでしょう。

子供の臨床例が載っているのですが、これがまさしく同病異治!食欲不振が主訴の、2人のお子さんが紹介されていました。

1人目の3ヶ月の赤ちゃんは胎毒が原因。受療後排便がたくさんあって食欲も出てきてひと安心、と思いきや…医者には相変わらず「体重がふえていない」と叱られ、夫は「そんなにふえないなら入院させたら」とまで言うので、母親は困っている、という話。

見違えるほど血色も良くなり、元気で機嫌よくしている赤ん坊を、ただ数字をみただけで、こんな判断しかできない人たちが多いと、増永先生は嘆いておられます。

2人目の一歳の男の子は食べ過ぎが原因。がこれは表面上で、背後に「母親に構ってほしい」という本当の理由がありました。始めはそれを解せず施術したら、子どもが異常に嫌がったので、増永先生は施術より診断に集中するよう変更。その結果、本当の理由がわかった先生、「子どもを預けた所から連れて帰ったら、良く我慢していたねとウンと抱いて可愛がってやりなさい」と母親に伝えたら、あんなにむずがっていた子がニコニコ笑い出した、という話。この子には指圧の施術はなく、母親へのアドバイスのみ。その通りに接したら、子どもはあれきりすっかり元気になったという。

この子は「聞きわけがよくておとなしい良い子、手をかけなくても大丈夫」と大人たちから見られていたので、その欲求不満を、からだの不調という形で表現していた、ということです。

これは、増永先生が身体だけでなく包括的に、子どもを診ていたという証です。身体だけを切り取って診ていたら、このような診断はできないでしょう。

ここで、増永先生は、大人や親たちが「良い子」を期待することがどれだけ子どもたちを蝕んでいるか、気付いてほしい、と主張されています。

今、知的障害の子どもたちと触れ合う機会があり、何氣なく「いい子だね」と言った後に感じていた違和感は、この「都合の良さ」だったのかもしれない。

この良い子、というのは、大人や親たちにとって「都合の良い子」という意味である。子どもは本来、のびのびと自分の生命の躍動に従って成長してゆくものなのである。それがしばしば、大人たちの形成した社会の枠組みを外れることになる。このことは、生命が新しい適応の方法を模索して、可能性を見出そうとする本能だと思う。若い生命がこのような冒険を怠れば、人間社会は老化し、時代の変化に対する適応力を失ってしまうのである。 

増永先生は、「側彎症」の子どもたちは「良い子」が多いと言及されていました。

全ての側彎症が若い生命の自由さをおさえつけた結果である、と一般化はできませんが、単に「悪い背骨」だけを矯正しても、本当に治すことはできません。そのようなからだにならざるを得なかった環境があるわけで、そこに氣がつくかどうか?でしょうか…
たとえ治療家が氣がついたとしても、それをご家族にわかっていただくように伝える、のは簡単ではないかもしれません。けれど、ここは大事ですね。

現代医学は「部分的医療観」。ある部分の異常や障害が全体に悪影響を及ぼしているのだという世界。だから、異常のある部分をとればOK、という局部処置となります。

局部処置で全体が良くなることが無い・・・とは言い切れませんが。
全体を見る視点無くしての局部処置は、人のからだを機械のようにみる「全てが入れ替え可能」な世界に繋がる氣がします。独自性が失われ、唯一無二の存在が抜け落ちていくような。

入れ替え可能となれば、いのちの価値も下がります。本来生きているはずのいのちは、数字としてカウントされ測られ判断されていく。そこには流れがなく、息遣いも聞こえてきません。

対して、東洋医学は全体的医療観です。全体の調和、陰陽の調和の乱れが、ある部分の異常や障害として表出する、という観方。

増永先生がこれを書かれたのは約40年前。

その当時に比べると、現代医学にも全体的(Holistic)な観点が取り入れられてきているように感じます。ホリスティック医療をやっている医師も増えてきています。

逆に、東洋医学の方は、いのち丸ごとをみる包括的視点が失われてきているように感じるのは氣のせいでしょうか…

ま〜、対極が歩みよって統合へと向かっている、とも言えるので、そう悲観する必要はないのかもしれません…

臨床においては再現可能性を高めていくことが大切。それには統計的概念も必要です。

熱いハートとクールな頭、でしょうか。それを体現するヒトでありたい…です。

 

人生は面白い。

 

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