心配するのは状況のせい、と以前は思っていました。だから、いろいろ心配事がある人には、力にならなければ…と人知れず思っていた時期もありました。
でも半世紀生きていると、状況が心配の原因ではないんだ、とわかってきました。
それは、ヒトの傾向、個性なんだね。
簡単に言うと、雨が降っても晴れてても、言うことは同じ。
「こんなに雨が降ったら〇〇になっちゃう。どうしよう…」
「こんなに晴ればっかりじゃ△△になっちゃう。どうしよう…」
お天道様のことは自分にはどうにもならない(中にはどうにかできる方もおられますが)。自分ではどうにもならないことを憂いて、心配する。
遺伝子レベルで見たら、心配性はしごく真っ当なのかもしれない。
野生では用心深く危険を怖れることが、生き残りの一つの条件に挙げられるだろう。
正しく恐れて心配した種が生き残って、今のヒトになってきたのなら、心配性は、その遺伝子が活性化している、とも言えるか。
私なぞはそういう人をみると、そんなに心配するエネルギーがよくあるな〜と感心します。
が、あれこれ心配することでエネルギーを得ている人もいるようなので、使うばっかりではなさそう。
ホント人は様々ですね。
人は千差万別。人は違っていて当たり前。
今朝見たリツィート。
排除?僕があなたをどうやったら排除できるのですか?僕はあなたが誤解していると申し上げました。それはあなたに対する「反論」であり「排除」とは全然違います。反論と排除を混同されているようです。なぜか最近よく目にする混同です。反論されたら排除されたと感じる人が増えているのでしょうか。 https://t.co/jFzNUUHbyq
— 想田和弘 (@KazuhiroSoda) 2017年10月19日
違っているのが当たり前だから、当然反論は起こり得る。日常茶飯事に起こり得る。
それを「排除」として感じる…
だから苦しくなるんじゃないかな。
だから痛いんじゃないかな。
「排除」は自分の世界を狭くする。
「排除」は分断を生む。
ただ、違っている。それだけでいいじゃん。
人生は面白い。