総括するのにはまだ早いですが、私の2017年後半はかなりの部分、國分功一郎と般若心経でできています。
7月に國分功一郎氏の本を読み、久々に「あ〜哲学って面白いわ〜」と再確認した私。
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今、『中動態の世界 意志と責任の考古学』読んでます。
ミニマリストを地味に目指している私は、なるたけ本は図書館で調達しています。
この本も、『暇と退屈の倫理学』を読んだ直後に図書館で予約しました。先日、長い長いウェイティングリストの順番がようやく回ってきて、読み始めたのでした。
半分くらい読んだところで、「これは買わなきゃ!」と本日、本屋へ。
読んでいるうちに、うすらぼんやりしていたピースが自分の中でハマりはじめ、「これがわかった」といった具体的なものではないのだけれど、自分のウチがすーっと霧が晴れて行くような感覚を感じた。
この感じ、10年くらい前にケン・ウィルバーを初めて読んだときもあった。かつて存在していた、能動態でもない受動態でもない、中動態。
その「失われた『態』」の視座で、能動か受動かしかない今を見ている、定義し直してみると、新たな世界が浮かび上がってくる。その世界が生まれてくる瞬間、ウチは時がなくなり無音になったあと、じわじわと静かな高揚感(?)で満たされてくる。
自分のなかに新しい宇宙が生まれた、感じ。
一方、本を読みつつ高揚している自分を皮肉る自分もいる。
意志がどこから始まるか、なんてどうでもよくない?
自発的であろうが非自発的であろうが、同意は同意じゃない?
これを知って何になるの?
これって生きるのに必要なの?
ランダムに浮かんできた最後の問いに、ふと我にカエル。
うん、少なくとも私には必要だ。
…と、はっきりした答えが返ってきた。
11歳の夏休みに「なんで私はここにいるんだろう?なんで生まれてきたんだろう?」と裏山に問いかけていた、私には必要だ。
中学のとき突然「私が見ている赤(別に何色でもいいんだが)と他の人が見ている赤とは違うかもしれないのに、同じ赤って言っていいんだろうか?」と氣になり始めて、どうやって伝えたらいいか数日途方にくれた、私には必要だ。
"How are you?"という挨拶に"Fine.", "I'm OK."とか答えていたのだが、ある日「今の私は"Fine"というほどFineじゃないんじゃないか?何をFineというのか?」とわからなくなり固まった、私には必要だ。
こうして書きながら、自分の面倒臭さに辟易もしています。
とはいえ、それらを面倒くさいからと言って無視することもできない(無視すると何かが死ぬ)。
この面倒くさい私が、この世の中で生きる為には、哲学の類は必要なのです。
別に哲学で救われる訳ではない、のですが、息をしやすくなる、のです。
そして、面倒くさい私のことも好きになるのです。
さらに、こんな面倒くさいことを考えられる、ことは一つの幸せなんだ、と氣付かせてくれるのです。
人生は面白い。