一香堂(ひとかどう)の身辺雑記

人生面白がろう😆一香堂はり灸師@神楽坂の雑記帳

最後は・・・

私のトラウマ再体験は、私にいろいろなものをもたらしてくれた。
(そのプロセス中は、そんなことは微塵も思わなかったけれど。)

辛い体験を経てきた人は優しい、と言われるが、ある意味真実だと思う。
「体験するためにこの世に生まれてきた」 と言った人がいた。これも真実だと思う。

体験しないとわからないもの、見えてこないものは、あまりにも有り過ぎる。
想像、妄想、ビジュアルとは、次元が違う。

私も前より優しくなった(笑)寛容になった。

例えば、以前は、心理療法の類は「みんなやるべきだ」と思っていた。心理療法に限らず、「自己を見つめる」ということはやるべきだ、と信じていた。今は「やりたければやればいい」と思っている。
そんな変わりないじゃない?と思われるかもしれないが、結構違う。

変な脅迫観念がなくなった。変な競争意識がなくなった。(ゼロじゃないが、格段になくなった)

私は何があっても私でしかなく、減りも増えもしない、という感覚。
なかなか言語化は難しいが、「委ね」が近いかな。でも、この言葉も、以前の認識と今の認識が変わっているから、ドンピシャではない・・・

次に「正論は役に立たない」と実感したのおかげで、「正論振りかざし」オババはやめようと決意した。
なぜなら正論は、何にも動かない、何にも打たない、何にも響かない。つまり、つまらない(ちょっとダジャレってる 汗)。
「正論振りかざしオババ辞めます」宣言に至るまでは、自分がいかに上っ面な人間だったか、自分が発していた言葉がいかに浅はかだったか、いろいろ浮かんできて、かなり悶えたのだがね。

「べき」→「したい」。「自発性」→「内発性」。宮台真司さんがいうところの「virtue」にも繋がるかと(元氣のある人はこちらも読んでください)。

最後に、これのおかげで「寛容」がデカくなったのではないか…と思っていることがある。
被害者でいることでもたらされるSweetな感じを味わったこと(私の場合です。他の人は知りません)。若干「悲劇のヒロイン(ヒーロー)症候群」に似ているか。

被害者でいることは痛い、辛い。何とかして、このトラウマから立ち直りたい、と思っていた。
同時に、その奥にうっすらと漂う「被害者で居続ける」ことの誘惑も感じた(私の場合です。他の人は知りません)

立ち上がるには力がいる、勇氣がいる。
「もうダルいから、このままでいいか」っていう氣持ちにもなった。

今辛くて何とかしたいのだが、そこから抜け出すのも「怖い」という感覚があった。
それは未知の世界だから。「知らない」ことはワクワクも生むが、恐怖も生む。

最後の最後は「被害者を止める」という自分の決心が必要なのだ。
今の状況も見通しも関係なく、自分で決める
言葉で書くと簡単だけど、この簡単なことを肚くくってやる。一回でダメだったら何度でも決心すればいい。

決心した通りの現実になったから、成功、っていうんじゃないんだよね。

「決心する」という行為が、何らかのエネルギーを生む。そこで起こる周波数変更が大きな力になる。

前回「苦しんでいる(いた)人は誰かの救世主」と書いたけれど、

hitokadoh-aider.hatenadiary.jp

最後は「私が、私の救世主」なんだ。

 

別のことで検索していたら、2009年に「救世主って誰?」というブログ書いていた(笑)
hitokadoh-aider.hatenadiary.jp

 

人生は面白い。