(前回から続く)
「トラウマ」とか「フラッシュバック」とか、多少の知識はありました。
たとえ知識があったとしても、起こるときは起こるのですね。知識があったから、軽いものになるとも限らない。
「これはフラッシュバックだから死なない」と頭でわかっていても、実際、過呼吸で呼吸困難になり身体が痺れてきたりすると、ものすごい恐怖を感じました。
自分の場合、フラッシュバックは「記憶の解毒」だったような氣がします(注:あくまで私見です)。
それは辛かったし、しんどかった。
最近大丈夫だ〜と思ったら、また戻ってきたり。
最初はその波をどうにかしてコントロールしようと躍起になっていましたが、頭を使って知識を使って知性を使って、どうにかはできませんでした。
これも自然の波と同じ、この波に乗っていこう!(サーフィンしないけど)と思ったんですね。
抵抗するより、嵐が通り過ぎるのを待つ。
無理に避けようとも紛らわそうともせずに、委ねるって感覚。
そうしていると自分の体感でわかってくる。
雲が通り過ぎていく。感情が通り過ぎていく。思考が通り過ぎていく。しかし、あなたのなかで通り過ぎていかないものは何か?それがわかるだろうか?(p.258)
— ケン ウィルバーbot (@KenWilber_botJP) 2017年5月11日
ある意味、稽古に近いでしょうか。忍耐もいる。
そして、やはり「時間」は必要です。「時が解決する」とはよく言ったものです。
とはいえ「待とう」「委ねよう」そう思えるまでに、また段階と時間が必要でした(笑)
まず、こんなことになっている自分が嫌で、恥じていました。
① 私は「レイプされていない」わけで未遂だった、のに、
② もう20年も前の、そんな昔の記憶なのに、
PTSD寸前ってありえないから!こんなグラグラ状態って信じられない!弱すぎだろ!って感じ。
これまでは、こんな感じで叱咤激励したら大丈夫でした。自虐ネタで笑い飛ばしていたら大丈夫でした。第三者的視点で自分を見ていたら大丈夫でした。(いや、本当は大丈ではなかったのかもしれない…)
今回は、それまで機能していた方法は功を奏せず・・・
自分に対する許可が必要でした。
- 傷ついてもいい、
- 悲しくてもいい、
- 弱くてもいい、
- 「つらい」と言ってもいい、
- 助けを求めてもいい、
- 今までの自分は壊れてもいい、等々。
「許可って、そんなの、とっくにやってるよ!」ってずっと思ってました。でも、まだまだ許していない自分に、たくさん出会いました。
それは、今まで「私」と思っていた殻を一枚一枚脱いでいく作業でした。
「これが自分」と思っていた殻をはいでいくようなもんですから、そりゃ痛くて当然ですね(と今は言えるけど)。
痛い度に、私は、「からだ」との約束を思い出していました。
その思いは、あるとき、ふと浮かんできました。
「記憶を思い出す直前に感じた、からだの緩み、なんかホッとしたように感じた。
私が事実をちゃんと受け止められるまで、『からだ』が記憶を貯めておいてくれてたんじゃないか・・・」
「からだ」に、この苦痛を今まで押し付けていたことを謝まりました。
今までこの記憶を引き受けてくれていたことにお礼を言いました。そして、約束しました。
「今度は押し付けないから。ちゃんと向き合って受けとめるから。」
受けとめるには「体験」する必要がある、と私は知っていました。
今回は逃げずに、体験して昇華させるときなのだ、とも。
記憶もまた現在の体験である。(p.261)
— ケン ウィルバーbot (@KenWilber_botJP) 2017年2月16日
(次回も続く予定)
補足:フラッシュバックについて書かれているものをググってみました。
こちらのサイトが好みです、神田橋先生が引用されているので(記事が途中で終わっていますが…)。
www.appuyer.jp
クローズアップ現代でも、過去トラウマ治療について取り扱っていたんですね。
www.nhk.or.jp
今回は、ケン・ウィルバーと埋め込みが多い (^^;
人生は面白い。