一香堂(ひとかどう)の身辺雑記

人生面白がろう😆一香堂はり灸師@神楽坂の雑記帳

言葉で「伝える」

自分の思い、考え、体験を伝えるために、言葉を使う。

「伝えたい」「自分と同じように感じてほしい」「わかってほしい」という思いが強過ぎるせいで、枝葉末節に言葉を使い過ぎ、ある瞬間、自分が何を言おうとしていたのかわからなくなり固まる。
・・・ということが、かつて、よくあった。

自分がそれまで放った言葉の羅列は、自分の言いたかったことと何のつながりも持たず、意味なく私の周りをふわふわ浮遊していた。
浮遊している言葉たちを見つめていると、自分が言いたかったことが本当にあったのかすら思い出せない感じだった。

言葉で伝えるってむつかしい。。。そう思った。

あるときは、言葉を話すそばから、「いや、それ違うだろ」「その言葉じゃ、ずれてるだろ」とダメ出しをする別の自分がいた。
どう話しても、どう言葉を使っても、私の伝えたいことは伝えられなかった。

だんだん、私は、口をつぐむようになった。
当たり障りのないことしか、語れないようになった。
思いを乗せて話すことが、むつかしくなっていった。

ある日ある時、当時病んでいた父親が、家族の前でヤケクソになって、言った。
「みんな、俺が死んだほうがいいって思ってんだろう。」

その言葉を聞いた私は、怒鳴り声と嗚咽が混じった声で叫んでいた。
「そんなこと誰も言っていない!死んでほしくなんかない!!」と言っていたつもりだったけど、実際は言葉になっていなかった。

父親は、ふと我に返って、そしてなぜだか謝った。「ごめんな、ごめんな」

そのとき父親が他の家族がどんな顔をしていたのか、涙と鼻水でズブズブだった私は見えなかった。
けど、何かが変わったことを、空気が教えてくれた。

そのあと冷静になった私は思った。
「言葉が一言一句伝わらなくても、思いは伝わるんだ。」

それから、私は、自分の言葉で金縛りになることがなくなった。
100%でなくていい、10%でも1%でも0.1%でも伝わるものがあるはず!

などと、思っておりましたら。。。

現在読んでいる『からだに効く坐禅』という野口法蔵先生の本のなかで、次のような一節に出会いました。

「言葉で『伝える』必要はない」

 

「そもそも、人を説得してよいことをさせようとか、よい話をして正しい方向に導こうなどということは、おこがましいことです。『他人に何かを伝えない』『他人を説得させたい』と考えるのは自己中心的な考え方です。言葉で人に伝えようとすること自体が『戯論(けろん)』なのです。」

 

「伝えようとしなくても、伝わるものは伝わります。」

 情報化社会の現代、「人間よりも情報の存在感が増し、情報の受発信をしなければ、存在価値がないともいわんばかりの世の中」の現代、「伝える」ことの本質をそっと熟考してみようと思います。

「伝える」ことで、自分をよく見せようと思っているかも。
「伝える」ことで、他人をコントロールしようと思っているかも。
「伝える」ことで、尊敬してほしいのかも。
「伝える」ことで、注目してほしいのかも。

それでも、私はやっぱり「伝え」ようとし続ける。
「伝える」にあきらめているし、「伝える」に期待しているし、「伝える」が何かを残すと信じているから。



人生は面白い。