本当の意味で、自分を傷つけるのは自分しかいない。
と腹の底から納得したら、見える世界が変わってくる。
むか〜し読んだ漫画(確か「エースをねらえ! 」)のなかで、「物事には幸も不幸もない。それを色を付けるのは自分たちだ」というようなことが書いてあったが、そんな感じ。
同じ出来事でも、それを受け止める人によって、ずいぶんと味付けは変わってくる。
それを「幸運の前兆」と思う人。それを「不吉な前兆」と思う人。
その思いの違いで、同じだったはずの出来事が、真逆の出来事に変化する。
これって、結構すごいことだ。
私達は、毎日毎日重大なことから些細なことまで、知っても知らなくても判断を下している。
重大なことに関しては、大概「自分が判断している」という自覚があるだろうが、些細なことに関してはその自覚がないことがほとんどだろう。
そして、起こる比率としては、重大なことより些細なことのほうが多い。
そして恐らく、たくさんの些細なことに対する無自覚な判断が積み重なって、今の「私」という人間ができている。
これって、結構恐ろしいことだ。
だからといって、「ポジティブシンキングしよう!」とか脳天気に言いたくないんだけどね。
外に対して否定的な判断をすることは、結局自分を傷つけていることと同じなのだなぁ。
そして、「自分を傷つけることができるのは、自分だけなんだ」といやに納得したのだった。
その納得感は、深い安心とリラックスに満ちていた。
先ほど、読みかけて(他の本を読んでいたので)しばらくほっておいたケン・ウィルバーの『無境界―自己成長のセラピー論』をまた読み始めた。
そこに、さらに昼間の納得感を裏付けるような一節が(強調は引用者追加)。
自分を困らせているのは、他人や出来事ではなく、それらは自分が自分を困らせる機会を提供しているにすぎないことが明らかになってくる。自分自身が症状を生み出してることに気づくと、驚くほどの安堵感が生まれてくる。
そう、私が昼間感じていたのは、「驚くほどの安堵感」ってものだった。
その安堵感のあとに、次の一文を読むと、この言葉たちの空気が変わってくる。
自分自身が自らの気持ちの結果ではなく、原因となるのである。
こういう言葉が、以前は、厳しく重く責任を問われているように、私のなかに響いていた。
多分、これまでは「原因」という言葉が悪いものを連想させ、直さなければいけないように急き立てられる気分になっていたのだと思う。
国語辞典によれば、「原因:何かが起こるときの、もとになることがら。」だそう。
普通にニュートラルな響きだわ。
同じ日本語なのに、以前はずいぶんと色付けしてた。