「何をするか」「何をしたか」この世の中、行動が重要視される。
行動は、ある意味シンプルだ。
外に表出するものだから、わかりやすい。ある人のことを語る際、その多くは「何をしているか」「何をしてきたか」ということ。
じゃ、何でもただ行動すればいいのか?
行動の奥には、その人の「在り様」が透けて見える。その「在り様」が、同じ行動を全く違ったものにする。
その行動をどういう気持ちでやっているのか。その思いは、行動から滲みでてくる。
結局、私達は、その人の行動を見ているようで、実はその人の存在を感じとっている。
嬉しさを感じながら行動すれば、受け手は、その嬉しさを受け取る。
怒りを隠しながら行動すれば、やっぱり受け手は、隠したつもりの怒りを感じるだろう。
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数日前、「在り方」と「行動」のつながり、バランスとかいったものがいろいろ出てきて書いていた。
昨日から読んでいるのが、ケン・ウィルバーの『グレース&グリット』である。
hitokadoh-aider.hatenadiary.jp
そのなかに「存在(being どう在るか)と、行動(doing 何をするか)の対立」に関して、妻トレヤの考えが書いてある部分があった。
トレヤは、行動を男性性、存在を女性性と関連付けて語っており、彼女は、自分が行動=男性性を過大評価するあまり、存在=女性性を抑圧してきたことに、氣づく。
ウィルバーも書いているが、「存在と行動の価値は、同じくらい重要である」
存在と行動。
女性性と男性性。
コントロールと許容。
抵抗と解放。
闘うことと明け渡すこと。
世界は、いっぱいの色々なバージョンの陰陽であふれている。
そのなかでのバランス、自然な調和を見つけること。
「自分の中の変える必要のある部分を変える決意と、あるがままの自分を受け入れることのバランス」。
そして、ここにも出てきた私の好きな祈りの言葉(若干訳が違うようだが)。
神よ、変えられない物事を受け入れる心の静穏と、
変えられる物事を変える勇気と、
そして、両者を見極める知恵をお授けください。
この章のタイトルは、「バランスの問題」。