「知っている」っていうのは、自分の目をふさぐことになりかねない。
「知っている」っていうのは、自分の世界を小さくくくることにもなりかねない。
「知っている」「どっかで聞いたことがある」
そう思った瞬間、自分の中のストーリーがいつの間にか始まっている。
そうすると、見ているようで見てなかったり、聞いているようで聞いていなかったり。
「知っている」「わかっている」
これらは、単に「つもり」でしかないことのほうが多い。
似たようなメッセージであっても、含まれていることは違ったりするし、
全然違う風に聞こえるメッセージであっても、そこにあることは全く同じだったりする。
また、あるとき、「知っている」ことが突然、見知らぬことに早変わりすることもある。
「え〜、そういうことだったの?!」てな感じで、新しい発見があったりする。
で、全然わかってなかったじゃん。。と思うのだ。
「自分がいかに知っているか」ということを追い求めるよりも、
「自分がいかに知らないか」ということを追い求めるほうが、世界は広くなるし深くなるし楽しくなる(氣がする)。
そして、「いかに知らないか」っていうことを追い求めていくと、「実は自分は知っていた」ということにもたどり着く。
世界はつながっていないようで、実はつながっているのね。
脈絡ないことを、最近『やさしいベイトソン―コミュニケーション理論を学ぼう! 』を読んでいて、思うのである。
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NLPつながりでグレゴリー・ベイトソンを知り、『精神の生態学』つう分厚い本を意気込んで手に入れたのだが(結局読めず、売ってしまいました)、理解不能でさっぱり進まず。
そこで、野村直樹著『やさしいベイトソン』を発見。今読み中。結構面白い。
私でもベイトソンの世界が覗き見れる、噛み砕き感がありがたいっす。
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