hitokadoh姐さんの身辺雑記

人生は面白い。一香堂のはり灸師、あれこれ綴ってます。

体育は身体知の機会らしい

先日行った「人体科学会」学会でもらったレジメを見ていて、ほ〜っと思った一文がありました。

  • グローバリゼーションの名で、身体知の機会(体育・音楽・美術・技術家庭等)が、初等中等教育で削減されることへの不安。 

こちらの枠の大橋容一郎先生のレジメです(実際の講演を聞けませんでした)。
14:45 ~ 17:15 シンポジウム①「身体と教育―大学教育における“身体性”を問う―」
司会:  鈴木 守(上智大学教授)スポーツ社会学
パネリスト: 大橋 容一郎(上智大学教授)近世現代哲学
      佐々木 究(山形大学)体育思想史
      村川 治彦(関西大学教授)身体教育学、応用健康科学
      山本 敦久(成城大学准教授)スポーツ社会学カルチュラル・スタディーズ

自分が学生の時にやっていたあれらは身体知の機会だったのか!と、軽く驚きました。体育はそうかなと思いますが、音楽・美術・技術家庭も身体知か…

言われてみればそのとおりなのですが、自分の中で「身体知」とそれらは全然結びついていませんでした。

思い返してみれば、音楽以外のこれらの科目が苦手でした。

もっとも苦手なのは体育でした。

やってて全然面白くなかった。平たく言えば、運動オンチ。

体操服とかジャージも嫌でしたね〜。今はもっとファッショナブルになっているのかもしれませんが、当時はジャージ全部原色だし。ブルマだし、下着と同じですよね?

鉄棒とか跳び箱とか平均台とかマット運動とか走り高飛びとかハードルとか怖すぎた。ただ「やれ!」って言われてもできなかったよ。

大体、体育の先生は声大き過ぎて、雰囲気が粗雑(いや、もちろん繊細な方もいるかとは思いますが、私が遭遇した限りにおいて)で、やたら近い、っつうか暑苦しい (繰り返しますが、私が遭遇した限りにおいて)

と、学生時代の私が思っていました。好きになる要素がほとんど無かったわけです。

そんな私が、なぜか中学時代はバドミントン部に入っていました。これは全くもって「エースを狙え!」の影響なんだけどね。
(じゃ「なぜテニス部じゃないのか?」って話だけど、中学には軟式テニス部しかなく、「硬式テニスじゃないと、エースをねらえ!にはならない」と思い、そして、同じような(全然違うけどね)ラケットを使ってことで、バドミントンに矛先が向いたのだった。)

決して上手くはありませんでしたが、からだを動かすのが嫌いではなかったのでしょうね。

あれらの科目が「身体知」を知る機会だった、と思えば、明らかに「身体感覚」は鈍い子どもでした。

でも、鈍いなりに、からだは使って遊んでいました。学校外では、川に入って遊んだり・・・そして何でここで溺れるのか?と思うような浅い川で二度ほど溺れました。水が早くて足元が持って行かれると浅くても溺れるノダ…、田んぼ走り回って凧上げしたり、木登りもしてました・・・ノロノロと。

ここからは「子どもに遊びは大事」というお話を。

ある鍼灸の先生(臨床40年以上)のお話です。

ある症状で治療に来ていたお子さんがいました。少し改善するけれど完治までは行かない。
あるとき、その子のお母さんに「〇〇ちゃん、からだ動かしてますか?」と聞いたところ、そのお母さんは「はい、△曜日とX曜日は水泳行っているし、体操教室も行ってるしバレエもやっています」というお答え。
先生「それは習い事でしょ?習い事じゃなくて、ただ、からだ動かして遊ぶ時間が子どもには大事なんですよ。」
それから、〇〇ちゃんは習い事を減らして、自由に遊ぶ時間ができたら、その症状はなくなったそうです。

今のお子さんは忙しいんですね〜。東京での話だから、別の場所だったらまた違うのだろうけど。
確かに、都市部には、子どもが子どもらしく遊ぶことができる場所が減っているのかもしれません。だから、習い事へ行くという場合もありますね。

小児はりがテーマのときに、「子どもは陽の氣の塊」であるというから、先生はこのケースをご紹介いただいたのですが。

ただ身体を動かしていればいいってものでもないのです。 

たぶん、そのお子さんは、楽しくなかったんだと思います。水泳やってても、体操やってても、バレエやってても。

身体は動いていても、心は鬱滞状態だったと。 

となれば、氣は動きません、巡りません。ゼロではないですが… 

こういう場合、身体知はどうなんでしょうね?
習い事の中での身体知。遊びの中での身体知。

「遊び」の大切さを知っている先生がいいんでしょうね。

その前に、親御さんが知ることが大事ですかね?

最後に「運動オンチあるある」記事が面白かったので、シェア!
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人生は面白い。