hitokadoh姐さんの身辺雑記

人生は面白い。鍼灸師、あれこれ綴ってます。

「暇と退屈の倫理学」を読んで高校時代を思い出す

高校のとき、倫理(倫理学)という科目がありました。
内容は、いろんな哲学者・思想家の考えを学ぶような授業でした。もうむか〜しのことなので、詳細は忘れましたが、哲学・思想学っぽい感じかな。

担当教師は、いかにも「哲学」やりそうな、メガネで髪は長め(長い前髪、耳が隠れて襟足にかかるくらい)、神経質そうだが、目には子供っぽい光がある、おじさんでした。
授業じゃないときその先生がどんな風だったかはよく覚えていませんが、廊下や教員室でたまーに見かける先生は、内省的な雰囲気に包まれていたように記憶しています。
普段物静かな様相の先生が、倫理の授業中は、唇の端に唾を溜めながら、熱く滔々と語るのです。その話っぷりは、授業というより、ある物語を聞いているようでした。

元来あれこれ思索するのが好きなので、哲学・思想の話はどんぴしゃり、ハマりました。

そこには今まで聞いたことのないような世界の捉え方、解釈の仕方があり、悩める思春期にちょっとした光を与えてくれました。
と言っても、ある哲学に救われた、とか、この思想で悩みがなくなった、とかそういう訳ではありません。

そこに広げられる、結論の出ない思索、矛盾を孕んだ結論等々は、正解が一つでない世界、正解さえない世界を教えてくれたような氣がします。「考えたいように考えていいんだよ」と言われたような感じです。
世界は想像していたより、だいぶ、いや、想像することができないくらいもっと広いらしい。人は、想像していたよりもっと一人一人が違っていて、同じ「人」とは思えないくらい矛盾している、そして、矛盾していてもいいんだ。

・・・と、今の私がその頃を思い出して言葉にしましたが、当時はモヤッとして言語化できなかったですね。モヤっとしながらも、光の粒が見えてくるような感覚でした。

暇と退屈の倫理学 増補新版』を読んだ後、そんな高校時代を思い出したのでした。

 

「より多くの人に読んでもらうような工夫をして」いただいたおかげで、2日で読み終えました。

著者の國分功一郎氏はあるインタビューで「哲学のない時代は不幸だが、哲学を必要とする時代はもっと不幸だ」と語っておられます。
「自分が幸せだ」と思っていたら、哲学を必要としないですかね?
そんな状態でも「どうして私は幸せなんだろう?」って(私みたく)考える人には哲学は必要かも。ま〜「どうして幸せなんだろう?」って思うこと自体が、既に「不幸」だとも言えますけど。

哲学は「考える」「自分の内面を見つめる」という行為のきっかけになった氣がします。
ある人が考える思想、ある人が導き出した真理を「わかる?わからない?私はどうだろうか?」と、自分に照らし合わせるために少し立ち止まる、自分の内面に少し耳をすませる。
その「少し」をすることで、自分の考えが単なる反応だったとわかったり(だからと言って、反応はなくなりませんが・・・)、無意識の中にあった事から意識に上がってきたりして、今までの自分の世界や常識に風穴が開きます。
もちろん、それは哲学でなくてもできますが、手段がいろいろあるのはいいんじゃないでしょうか?

哲学を必要としている時代は「目覚めたがっている」人がたくさんいることのサインだと思うのです。

私が読んだのは増補新版でしたので、付録が付いてました。この付録「傷と運命」が、よりツボでした。

「サリエンシー saliency」の概念の紹介と熊谷晋一郎氏の「疼痛研究」は、慢性疼痛の捉え方に大きなヒントを与えてくれそうです。

痛みは記憶と深く結び付いています。その身体の痛みは心のものかもしれません。心の痛みは身体のものかもしれません。あるいは、身体と心両方かもしれません。
「刺激を避けるにもかかわらず、刺激がなければ不快な状態に陥る」という矛盾も、私たちは肉体だけでない証といえます。

注釈を読むと、この付録のアイデアは、熊谷晋一郎氏からのコメントと共同研究によるものらしいです。その成果をまとめた共著を準備中とのこと。これが國分氏の最新刊『中動態の世界 意志と責任の考古学』なのかと思ったんだけど、共著ではないから違うのかな?
こちらも面白そう!

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