一香堂(ひとかどう)の身辺雑記

人生面白がろう😆一香堂はり灸師@神楽坂の雑記帳

映画『わすれな草』観ました

映画『わすれな草』見てきました。

認知症になった母親(グレーテル)を通して、家族がもう一度家族になる。

今まで「妻」「母」と思っていた人の記憶が、混濁し薄れボツボツと無くなっていき、段々とそうでない人に変わっていく。その過程の中で、家族は戸惑い、悲しみ、抵抗し、諦め、受け入れる。
認知症になったことから、初めて知る妻の氣持ち、自分が生まれる前の父母に出会う息子。

慣れ親しんだ人が別人になっていく様は、病だと頭ではわかっていても、切ない。悲しい。

グレーテルは、おそらく、認知症になることでしか表現できない何かを持っていた。
もう自分も忘れてしまった大昔の何か。忘れてゆくうちに浮かび上がって来た何か。
それらは、表現されたがっていて、ずっと待っていたのかもしれない。

認知症になったおかげで、彼女は本当に自由になったのかもしれない。

やっぱり、最後は「愛」か。結局それか…

なんでも「愛」って持ち出す自分に少しの居心地の悪さも感じつつ・・・
でも「愛」、なのだ。

「愛」という言葉は使い古され消耗され、薄っぺらな響きを感じつつ・・・
でも「愛」、なのだ。

浅くて深くて、鋭くて大らかで、俗から聖まであらゆるものを包含している。

だから、形は一つだけじゃないし、正解も一つだけじゃない。
と、「愛」は教えてくれるのだ。 


映画『わすれな草』予告編

私の祖母も、晩年は認知症が出て寝たきりになり、最期まで自宅で過ごしそこから死にゆきました。

自宅で介護し看取るには、今の核家族主体の構成では難しいことの方が多いでしょう。介護を、家族内だけの問題にするにはあまりにも大き過ぎます。

とはいえ、「家の中」という生活の場で生死老病があることは、大事…とも思っています。

当時高校生だった私は、母が主に担っていた介護に積極的に関わっていた、とは言えません。
それでも一つ屋根の下にいたことは、確実に私の生活の一部になっていて、私の「いのち観」に深く織り込まれています。

病の匂い、人のいのちの火が衰えていく氣配、いのちが去った後のからだの感触、周りの空氣。。

それらは「忌むべきもの」ともされる場合がありますが、その奥に流れる循環、この世と「あの世」と呼ばれる場所を流れる循環の感覚を、私にたくさんもたらしてくれました。

映画の終わりに、娘とその息子(孫)二人が、いのち消えゆくグレーテルに、スープか何かをスプーンで飲ませているシーンがあり、二人の孫は「次は僕がやる」と自然に、そして少し楽しげに、おばあちゃんの口にスプーンを運んでいました。

そして、子どものような笑顔の母親グレーテル。

言葉で括るのは不可能で、言葉を超えたところでつながるもの、それがいのちなのかな…

静かな涙と温かい胸とともに、映画館を出ました。

 

そういえば、今年に入って観たドキュメンタリー映画はどちらもドイツ語だ。
こちらの『わすれな草』と『0円キッチン』(『0円キッチン』は英語ナレーションですがドイツ語の部分も)。

 

人生は面白い。