hitokadoh姐さんの身辺雑記

人生は面白い。鍼灸師、あれこれ綴ってます。

「場」からはじまり徒然

NLPから派生した私の妄想について、書く。

6月中頃からよく意識に上がって来ているのが、「場」についてである。

自分とある人、または、ある物との間に存在する「場」。
それを関係性と呼ぶ人もいるかもしれないが、私にとっては「場」というほうがしっくりくる。

「場」=「エネルギー」ともいえる。

実際「場」を感じるときとエネルギーを感じるときの、自分の状態は似ている。また、自分の無意識とコンタクトをとるときの状態とも似ている。

私にとって「場」を見ることが、中立のステートにいることとつながるようだ。

今までは、興味があって「とても知りたい」と思う対象に対峙する場合、ぐぐっと近づいて、じっくり見て、より近くより深く、集中かつ介入的だった。
ド近視の人が、よりよく見るため、顔を近づける感じ(実際私はド近眼)。

「場」に関心が行っていくと、より視点がゆるく(周辺視野的)包括的な見方に変化したようだ。

NLPでは「周辺視野を使う」と言うが、その有効性をひしひしと体験している。

「場」にアプローチするというと、間接的に聞こえる。
だが実際は、より相手のことが繊細に敏感にセンサーのようにわかりやすい。

そして、自分の存在もキープできる。
自分のリズムを刻みつつ、相手のリズムもよく聞こえる感じ。
呼吸も楽だ。要するに、息を詰めてじっと目をこらす必要性がないのだ。

「場」を意識することで、その空間の流れがよく見える。

それが「コンテンツではなく、コンテキスト志向」ということか。

左脳と右脳の両方の理解。
頭もからだも「Yes!」という感覚。
そうそう、私は両方欲しいのだ。

体験だけではなく、知識も欲しい。
知識だけでもなく、からだの細胞全部でわかりたい。

そう考えると、人間の知覚、感性はどこまででも広がるものなのである。

これが全部だろうと思っていても、それはひっくり返る。
そのまだ先があることに気がつく。

平凡な瞬間なんてないのかもしれない。
わかっていると思っている私達は、実はたくさんのものを見逃している。
瞬間が平凡なのではなく、私達のセンサーが単に閉じているだけともいえる。
平凡なんてものは何一つなく、ただ自分が「平凡だ」と信じているだけに過ぎない。
それはただの妄想だ。

とまぁ「場」の話題から流れ、どこまでも行きそうなので、私の妄想も一旦修了〜!