hitokadoh姉さんの身辺雑記

鍼灸師、心に浮かんだこと、あれこれつづります。

状態管理から始まり

先日から、NLPで言うところの「状態管理」について考えている。

状態管理=自らの状態は自らで決められる。
これは、非常にパワフルであるが、一方で非常に厳しい。

例えば、あることがきっかけで、「落ち込んだ」とする。

でも落ち込んだ状態を、その「あること」のせいにはできない。状態管理は、自己責任なのである。

このことは、しばしば耳にする「人を変えるより、まず自分が変われ!」という言葉と似ている。

自分が変わるって、どういうことなのだろうか?
自分の視点を変えてみる。自分の感じ方を変えてみる。言葉の使い方を変えてみる。
ごくシンプルなことだが、続けていくと、結構あなどれない効果がある。

私の場合は、自分がイケてないとき、被害者意識がひどくなる。
そんなときは、ささいな言葉で傷ついて、優しい言葉でさえ、なんかひねくれて聞いていて、受け取れなくなる。
「私のことをわかってくれる人なんかいない!」という悲劇のヒロインモード全開で、究極の分離感と空虚感でいっぱいになり、何もかも投げやりになる。
このときの私を外から見てみると、全て「あいつのせい」「あのことのせい」。
自分の感情は自然発生的なものでコントロール不可能だって、自分のことをすっごく小さく無力な存在と見ていたってことだ。

ある意味、全てを自分以外のせいにしていたほうが楽だ。
自分で背負うものが、何もないから。
その状態において、自分が自由で楽しんでいたら、それは問題ない。

しかし、あるとき気がついた。それは本当の自由でないし、本当に楽しんでいるのとは違うと。

そして、何で自分が被害者意識炸裂になるのか、原因・理由を探しはじめた。
物事には、必ず原因があるはずなので、それがわかれば全てを解決してくれるだろうと。
実際、原因がわかることで、変わったこともあった。救われたこともあった。

でも、今考えると、原因究明は私をただ納得させるだけ(これはこれでいいのだが…)で、力を与えてくれたわけではなかった。

原因究明という作業は、過去志向である。
過去志向をあまりにやりすぎると、過去にエネルギーを与えることになり、現在より過去が肥大化する傾向がある。

だからといって、過去を見る原因究明が必要ないとは言わない。
原因究明により変化に備える自我が納得し、そのおかげで、変容がスムーズに早く起こることは、否定できない。
私の経験では、もう必要となくなった自我は納得していると、割に脱ぎやすい。(あれこれ小難しいことを考えなくても納得していなくても、必要なときに、変容は起こるので、流れにまかせるだけでもOKであるが…)

ここで、現在未来志向が、いかに自分の力・リソースになるかということを書こうと思っていたのだが、予定変更。

最初の「状態管理」に戻る。

自分の入っているボックス(状況)から外に出るってことが、状態管理の鍵だと思っている。
ボックスから出ることで(=メタ・ポジション)、コントロールがより簡単になる。
ボックスから出ることは、また問題解決の鍵でもある。

そこで、さっきの過去の原因探しに戻るのだが。
原因探しにおいても、多かれ少なかれ「ボックスから出る」ことが必要とされる。同時に、ボックスから出なくても、原因探しはできてしまう。

その人個人が、過去の原因究明をどの程度ボックスから出て行っているのか?
完全に出ていれば、恐らく、その過去から派生して、瞬間に現在〜未来へ、その変容はもたらされるだろう。

結局何が言いたいかというと、最後は「人」なのである。
話題になる方法論は、単なる「道具」なのであって、生かすも殺すも、使う「人」によるのだ。
そして「人」を磨くのはその「道具」が有効であるので、「道具」も大事ってことになり、ここでも「卵が先か鶏が先か」議論になるのだが。

今回もまた、私のねじれたパラドックスブログは、着地することなく漂う…

最後はNLPで締めるか。NLP版「ボックスの出方」は非常にシンプルだ。え?こんなんで?っていう感じだ。

シンプルだからこそ、奥深いのである。

そしてシンプルであるが故に、世間では「操作的」と見られてしまう。うーん、残念だ。