一香堂(ひとかどう)の身辺雑記

人生面白がろう😆一香堂はり灸師@神楽坂の雑記帳

映画『メッセージ』の原作本を読んで

何かを選ぶとき、決めるとき、わけも何も考える間もなく、氣がついたら選んでいた、決めていたってことがある。

そうせざるを得ない…

って書くと、しようがなく致し方ない、渋々って空氣が漂うが、そうではなくて。
それしかないって感覚、だろうか。

そういうときの感覚って、実は未来から来ているんじゃないか…

来ている・・・というより、そこには未来も同時に存在しているんじゃないか…

その時それを選んだり決めたりしている私の、顕在意識には上ってきてはいないから、今の私が選んだり決めたりしているように見えるし、実際そう思っている。

でも、本当は未来の私も一緒に選んだり決めたりしているんじゃないか。

テッド・チャン著『あなたの人生の物語』を読みました。

あなたの人生の物語

あなたの人生の物語

 

映画『メッセージ』(原題は"Arrival")の原作本ですね。こちらの映画を観て「原作読みたい」と思ったのですが、原作は短編小説でした。



映画『メッセージ』本予告編

主人公のルイーズが仕事後、同じ調査メンバーのゲーリー(ルイーズは未来の夫であることを知っている)に彼の家で「一緒に夕食を食べよう」と誘われ、夕食の材料の買い出しにマーケットに行く場面があります。そこで、ルイーズが不意に目についたサラダボウルを思わず手にとります。そのとき彼女は、これからゲーリーとの間に生まれてくる娘が三歳のとき、そのサラダボウルを頭の上に落っことしてしまう未来も、同時にわかっているのです。

わたしは手をのばして、棚からそのボウルをとった。その動きは、そうすることを強いられたものとは感じられなかった。そうではなく、ボウルがあなたの頭に落ちてくるときにそれをつかもうと躍起になるのと同じ切迫感だったと思う。それに従うのが正しいと感じる本能のひとつだと。 (p.254)

この部分を読んだとき、冒頭に書いたようなことが浮んだのでした。

ルイーズは、異星人ヘプタポッドとの交流を重ねていくうちに、同時的認識の感覚が開かれてきます。

未来がわかっている人間は、その未来に抗う選択をするのか、それともそれをなぞる選択をするのか?

人は、今世のブループリントを決めてきて、生まれてくる、と言われます。

でも生まれるときに、そんなことはすっかり忘れてしまって、人生を生きていきます(忘れずに覚えている方もいますが)

生きていくうちに、そのブループリントがわかる場合もあります。

そういうことが起こったら、このルイーズの同時的認識の感覚と近い状態なのかな、とも。

本のタイトルになっている『あなたの人生の物語』のほか7編の短編が収録されています。どれも面白かったですが、だいーぶ迷うけどあえて言うなら『七十二文字』が好みです。

そういえば、久々にSF読みました。アイザック・アシモフとか読んだな〜。何読んだか忘れたけど(笑)。

 

人生は面白い。 

ミトコンドリアは硫黄もお好き♡

Twitterで、こちらの記事がシェアされてきました。

www.tohoku.ac.jp

「ヒトを含む哺乳類が硫黄代謝物を利用した新規なエネルギー産生系(硫黄呼吸と命名)を持つ」ことが発見されました。

ミトコンドリアは、硫黄もお好きなのですね。

私たちの細胞は、地球上に酸素がなかった太古に獲得した仕組みをまだ使って生きていたんですね〜。

こういう発見って、心躍りますね!ロマンだわ〜💕

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人生は面白い。

台座灸も効くね〜

木枯らし1号が吹き荒れた月曜日、外を歩き回ってからだが冷えたせいか、夜になると背中がゾクゾクするわ、鼻水が水のようにタラーとなるわ、くしゃみが出るわ、「風邪入りました」状態でした。

翌日(=昨日)起きたけれど、風邪はまだ抜けていず、前日と同じ調子。

そうだ!こんな時こそお灸💡です。

早速、せんねん灸を大椎に。
以前髪燃やしそうになったから、今回はしっかりと髪まとめてね。

お昼過ぎたころには鼻水が止まり、くしゃみも止まりました。
夜予約の患者さんに、鼻水垂らさずに済みました。よかった、よかった!

台座灸(いわゆる「せんねん灸」みたいなお灸です。せんねん灸は商品名。)、今まであまり好きではありませんでした。

便利は便利なんだけど、熱の入り方がいまいち好きになれず・・・染み通っていく感じが弱いんですよね〜。

やるんだったら「点灸の方がよくない?」派なのです、私。

でも、弱点もあります。
自分の背中とか腰とか膝裏とか首の後ろには、セルフ点灸できないのですよ。

遠隔治療という手もありますが、その患部にやりたいときあります。

そこで、台座灸です。

やっぱり便利〜!お手軽!
そして(当たり前ですが)ちゃんとお灸です!!

とまぁ、最近台座灸の良さを実感しております。

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せんねん灸オフ竹生島150点

せんねん灸オフ竹生島150点

  • 発売日: 2003/01/20
  • メディア: ヘルスケア&ケア用品
 

そんなわけで(ってどんなわけだ?)、今度、神楽坂で「鍼灸セルフケア講座&体験会」をやります。
11月23日(木・祝)の勤労感謝の日に、ご自分のからだに感謝しつつ労うこと、神楽坂でしませんか?

 

人生は面白い。 

体育は身体知の機会らしい

先日行った「人体科学会」学会でもらったレジメを見ていて、ほ〜っと思った一文がありました。

  • グローバリゼーションの名で、身体知の機会(体育・音楽・美術・技術家庭等)が、初等中等教育で削減されることへの不安。 

こちらの枠の大橋容一郎先生のレジメです(実際の講演を聞けませんでした)。
14:45 ~ 17:15 シンポジウム①「身体と教育―大学教育における“身体性”を問う―」
司会:  鈴木 守(上智大学教授)スポーツ社会学
パネリスト: 大橋 容一郎(上智大学教授)近世現代哲学
      佐々木 究(山形大学)体育思想史
      村川 治彦(関西大学教授)身体教育学、応用健康科学
      山本 敦久(成城大学准教授)スポーツ社会学カルチュラル・スタディーズ

自分が学生の時にやっていたあれらは身体知の機会だったのか!と、軽く驚きました。体育はそうかなと思いますが、音楽・美術・技術家庭も身体知か…

言われてみればそのとおりなのですが、自分の中で「身体知」とそれらは全然結びついていませんでした。

思い返してみれば、音楽以外のこれらの科目が苦手でした。

もっとも苦手なのは体育でした。

やってて全然面白くなかった。平たく言えば、運動オンチ。

体操服とかジャージも嫌でしたね〜。今はもっとファッショナブルになっているのかもしれませんが、当時はジャージ全部原色だし。ブルマだし、下着と同じですよね?

鉄棒とか跳び箱とか平均台とかマット運動とか走り高飛びとかハードルとか怖すぎた。ただ「やれ!」って言われてもできなかったよ。

大体、体育の先生は声大き過ぎて、雰囲気が粗雑(いや、もちろん繊細な方もいるかとは思いますが、私が遭遇した限りにおいて)で、やたら近い、っつうか暑苦しい (繰り返しますが、私が遭遇した限りにおいて)

と、学生時代の私が思っていました。好きになる要素がほとんど無かったわけです。

そんな私が、なぜか中学時代はバドミントン部に入っていました。これは全くもって「エースを狙え!」の影響なんだけどね。
(じゃ「なぜテニス部じゃないのか?」って話だけど、中学には軟式テニス部しかなく、「硬式テニスじゃないと、エースをねらえ!にはならない」と思い、そして、同じような(全然違うけどね)ラケットを使ってことで、バドミントンに矛先が向いたのだった。)

決して上手くはありませんでしたが、からだを動かすのが嫌いではなかったのでしょうね。

あれらの科目が「身体知」を知る機会だった、と思えば、明らかに「身体感覚」は鈍い子どもでした。

でも、鈍いなりに、からだは使って遊んでいました。学校外では、川に入って遊んだり・・・そして何でここで溺れるのか?と思うような浅い川で二度ほど溺れました。水が早くて足元が持って行かれると浅くても溺れるノダ…、田んぼ走り回って凧上げしたり、木登りもしてました・・・ノロノロと。

ここからは「子どもに遊びは大事」というお話を。

ある鍼灸の先生(臨床40年以上)のお話です。

ある症状で鍼治療に来ていたお子さんがいました。少し改善するけれど完治までは行かない。
あるとき、その子のお母さんに「〇〇ちゃん、からだ動かしてますか?」と聞いたところ、そのお母さんは「はい、△曜日とX曜日は水泳行っているし、体操教室も行ってるしバレエもやっています」というお答え。
先生「それは習い事でしょ?習い事じゃなくて、ただ、からだ動かして遊ぶ時間が子どもには大事なんですよ。」
それから、〇〇ちゃんは習い事を減らして、自由に遊ぶ時間ができたら、その症状はなくなったそうです。

今のお子さんは忙しいんですね〜。東京での話だから、別の場所だったらまた違うのだろうけど。
確かに、都市部には、子どもが子どもらしく遊ぶことができる場所が減っているのかもしれません。だから、習い事へ行くという場合もありますね。

小児はりがテーマのときに、「子どもは陽の氣の塊」であるというから、先生はこのケースをご紹介いただいたのですが。

ただ身体を動かしていればいいってものでもないのです。 

たぶん、そのお子さんは、楽しくなかったんだと思います。水泳やってても、体操やってても、バレエやってても。

身体は動いていても、心は鬱滞状態だったと。 

となれば、氣は動きません、巡りません。ゼロではないですが… 

こういう場合、身体知はどうなんでしょうね?
習い事の中での身体知。遊びの中での身体知。

「遊び」の大切さを知っている先生がいいんでしょうね。

その前に、親御さんが知ることが大事ですかね?

最後に「運動オンチあるある」記事が面白かったので、シェア!
ure.pia.co.jp

 

人生は面白い。 

感動するとテロメアが伸びる…かも?

前回からのテロメアつながりで。

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テロメアという言葉を異様に意識したのは、今から12年前の2005年。
アロマセラピーの勉強でスクールに通っていた当時、何かの授業(解剖生理学ではなかったことは覚えている)、1、2回で終わる科目でした。

DNAのテロメアという部分は、細胞分裂するたびに短くなっていき、ある短さになるともう分裂できなくなり、その細胞は死ぬ。そのテロメアをできるだけ短くしないようにすることが、老化の防止になる、という話でした。

その後、先生はこう続けました。

「短くならないようにする方法、わかる?感動することですよ。皆さんが感動すると、テロメアがチョロっと伸びるんです」

今となっては、その先生が何を根拠にそう言ったのかわかりませんが、何かワクワク嬉しくなりました。
それを聞いたとき、私のテロメアがピピッと伸びるのが(脳内で)見えましたw「私のテロメアも喜んでいる!」

根拠なく、私はその話を信じました。それから今も信じています。

最近の研究で、テロメアを伸ばす酵素があり、生活習慣でその酵素の働きが活性化されてテロメアが伸びることがわかってきたそうです。

テロメアを伸ばす方法として挙げられているのは、

  • 軽めの有酸素運動を週3回、
  • 野菜中心の食事。海藻、魚なども良い。和食もおすすめ。
  • 7時間以上の睡眠、
  • 友人、パートナー、家族、地域など、人とのつながり。

 そして、瞑想ですね。

www.nhk.or.jp

「感動する」っていうのはありませんでしたが、心身が元氣になること、喜ぶことが、細胞にも影響を与えるということですね。

となれば、感動することは、テロメアを伸ばす方法の一つとなりそう。
ま、テロメアを伸ばす為に感動している訳ではないけどね。

テロメア」とか「細胞」とか、なんでもいいのですが、こういうことを知ると、自分というものの捉え方が変わります。

それらは、明らかに「私」の一部であり、それらによって「私」は構成されているのだけれど、「私」とは全く同じとは言いがたい。
「私」のモノというより、仲間に近い感覚。

何かに感動しているとき、テロメアも一緒に感動しているんだって思うと、またさらに感動する。

なんか嬉し〜よね、そういうの。

 

人生は面白い。 

 

 

人体科学会の学会

友人に教えてもらった、人体科学会年次学会にサクッと行ってきました。
非会員の参加費は1,000円という、太っ腹!

私が拝聴したのは土曜の第2部〜基調講演だったのですが、どれもツボりました。

医療に「いのち」とか「氣」の概念をどう取り入れるか、そういうことを真剣に模索されている医師のお話は、感動しました。

「チ楽」というものを独自に生み出された山野隆先生が語られていた、EBM (evidence-based medicine)ではなく、RBM(regularity-based medicine)。

根拠がなくても、法則性はある。
根拠がないからダメという訳ではない。
根拠を探すより、法則性・再現性を観る。
というお話は、至極納得。

多少の差はあれど、鍼灸にはそういう要素があります。
鍼灸学校で「法則性」「再現性」をとても強調されていた先生がいらっしゃいましたっけ。

根拠がなければ「エセ」とされる風潮もあり、とかく根拠を求められます。

それは大事だけれどそれだけに囚われず、「法則性」を見つける姿勢が大事なんだと、ハッと気付かされました。

基調講演をされた寒川恒夫先生のお話も面白かったです。
からだ観、からだの使い方と民族・社会との関係性は、普段意識しないけれど、「ある、ある」的な。
武術伝書からのお話は、私にとっては新鮮でした。
最後は、テロメアのことにもさらっと触れられていて、私のテロメア熱が再燃しました!


www.nhk.or.jp ちゃんと「私たちの体を形づくる37兆個の細胞」になっている。さすがNHK!?

これも読もう!

なんでかな〜、こういう話ワクワクします!
血湧き肉踊る〜って感じ💓

チ楽祭も行ってみたい。今年のは終わってた、残念…

 

人生は面白い。 

あなたと私は違っている、だけ

心配するのは状況のせい、と以前は思っていました。だから、いろいろ心配事がある人には、力にならなければ…と人知れず思っていた時期もありました。

でも半世紀生きていると、状況が心配の原因ではないんだ、とわかってきました。

それは、ヒトの傾向、個性なんだね。

簡単に言うと、雨が降っても晴れてても、言うことは同じ。
「こんなに雨が降ったら〇〇になっちゃう。どうしよう…」
「こんなに晴ればっかりじゃ△△になっちゃう。どうしよう…」

お天道様のことは自分にはどうにもならない(中にはどうにかできる方もおられますが)。自分ではどうにもならないことを憂いて、心配する。

遺伝子レベルで見たら、心配性はしごく真っ当なのかもしれない。

野生では用心深く危険を怖れることが、生き残りの一つの条件に挙げられるだろう。

正しく恐れて心配した種が生き残って、今のヒトになってきたのなら、心配性は、その遺伝子が活性化している、とも言えるか。

私なぞはそういう人をみると、そんなに心配するエネルギーがよくあるな〜と感心します。

が、あれこれ心配することでエネルギーを得ている人もいるようなので、使うばっかりではなさそう。

ホント人は様々ですね。

人は千差万別。人は違っていて当たり前。

今朝見たリツィート。

違っているのが当たり前だから、当然反論は起こり得る。日常茶飯事に起こり得る。

それを「排除」として感じる…

だから苦しくなるんじゃないかな。
だから痛いんじゃないかな。

「排除」は自分の世界を狭くする。
「排除」は分断を生む。

ただ、違っている。それだけでいいじゃん。

 

人生は面白い。