一香堂(ひとかどう)の身辺雑記

人生面白がろう😆一香堂はり灸師@神楽坂の雑記帳

恵比寿で「坐る」

昨日、恵比寿へ坐禅しに行ってまいりました。こちらです。

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井上貫道老師のこと存じあげなかったのですが、先月ある知り合いの方から教えていただきました。

そして、昨日、恵比寿の福昌寺で坐ってきました。禅堂があるようなのですが、時間ギリギリに行ったため(坐禅後ご講話される)和室に坐りました。

きちんと坐禅するのはすんごい久しぶりでした。が、蛇の倉以降、正座して般若心経や真言を毎日唱えているせいか、足が痛くなることもなく、氣持ちよく坐れました。お寺でいろいろな人たちと共に坐ると、場が整っている、というか、自宅で坐るのとは違って、ストンと「坐る」モードに入れます。

二炷目(2回めの坐禅)では「普勧坐禅儀」を唱えました。永平寺での参禅修行のことを思い出して、懐かしさに引きづられ「ここ」にいませんでしたね。イカンイカン(^^;;

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坐禅後、井上老師のご講話がありました。

老師は「話は大事じゃない」とおっしゃられ、「坐る」ことの大切さを繰り返し伝えられていました。

当然といえば当然なのですが、「生の禅問答」なわけですよ。禅問答は読むもんじゃない、生で聞くものだ!と若干興奮しました(笑)こう言ってはなんですが、面白い、のです!

「今ここ」にいることの重要性をいろいろな比喩でお話されるのですが、実体のない言葉で「実体」を伝える老師の様は、言葉を超えたものをたくさん伝えてくださっていた…と思うのです。

印象的だったのは「そういうようにできている」。努力しなくても得ようとしなくても、そういうようにできている、ということ。

「本当に見ているのか」「本当に聞いているのか」「本当に知っているのか」そういう問いがいっぱい出てきて・・・そして今度は、自分は、目の前の患者さんが本当に見えているのか?本当に触れているのか?本当に出会っているのか? と問いがぐるぐる渦巻いて・・・
今は、ガラガラポンな氣分です(ってどんなだ?)。

いつのまにか私は、いろんな垢をつけて、物事を複雑にして小難しくして、そっちの方が偉いって思ってる。垢落としは常に必要ですね〜。

大事なのは日常ですが、ああいう場で素に帰るのはいいですね。軽くシンプルになりました。

普段お忙しい方も、月に1回くらいは定時に上がって「坐る」っていうのいかがですか?
今まで氣がつかなかった次元が開けてくるかもしれませんよ。

 

人生は面白い。ほんとーに面白い!

引き続き、般若心経について

前回に引き続き、般若心経について。

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ちょっと意味もわかったし、般若心経がより響いてくるかと思いきや・・・

昨日と今朝、どうにも調子が悪いです。
唱えていると、にわか知識の数々が頭をよぎり、そこで途中停止する。つっかえつっかえで、いつもより時間がかかってしまいました。
当たり前といえば当たり前ですが、お経は考えながら唱えるものではないな、と実感しました。

そういえば、「般若心経の意味は教わるな」ということを聞いたような氣がして・・・

そうそう、野口法蔵先生のお話でした。 

野口法蔵先生は坐禅断食を考案されたお坊さまで、坐禅断食やその他に関しても多数著書があります。

   

響き合う心と体」(坐禅断食参加時に購入した本。amazonでは買えません。)の中に、そのお話が載っていました。

法蔵先生はチベットでも修行されていたのですが、そのチベットでの話です。

法蔵先生が最初に般若心経について教わったときに、意味を人から教わってはいけないと言われたそうです。チベットのお寺では、般若心経の意味を誰も教えないし、誰も教わらないそうです。
そして、意味を知らないでただただ唱えているうちに、何が書いてあるかポンとわかる時があったそうです。法蔵先生曰く、

般若心経は唱えるお経だということです。唱えて初めて意味に到達できるお経だというふうにとらえています。お経には言葉の意味を読み取ればいいお経と、唱えて意味があるお経とがありますが、般若心経は唱えるためのお経なんです。

法蔵先生のご師匠は、意味を教えてもいいが、教えたら般若の説く空になれるのか?そうでないなら教えない、教えない方が早く分かる、と言われたそうです。「それには、読め。ついてこれなかったら、後の部分だけ、ガテー・ガテー・パラガテー・パラサンガテー・ボーディ・ソバーハーのところ、これだけをずーっと繰り返していなさい」と。
そして2年くらい経ったときに、透き通るように分かり、師匠の所に言いに行ったら「それでいい」と言われたそうです。

お経を体得された瞬間ですね。素晴らしい!!

そういう世界の足元にも及びませんが、「般若心経は唱えるお経」ということなので、唱えてゆきましょう。

こちらの本に引用されていた花山勝友氏の翻訳、こちらのサイトでご覧になれます。

形あるものは実体がないことと同じであり、
実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。
したがって、形あるものはそのままで実体なきものであり、
実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。

「色不異空空不異色色即是空空即是色」 の部分なのですが、やっぱりすごい!と射抜かれました。

こちらの動画、全4回で般若心経を解説してくれています。英語だと“The Heart Sutra”って言うんですね。


100分de名著 般若心経 3/4 「"無"が教えるやさしさ」

最終回は「唱える」こと、音の重要性が強調されていました。「『私』が消えてくれた方が、いのちはのびのびとできるし、本来の力も出せる」ってうまいことおっしゃってます。お経を唱えると、いのちも元氣になる?!


100分de名著  般若心経 4/4  「見えない力を信じる」

 

人生は面白い。

日々般若心経

蛇の倉へ行ってから、とてもハマっている「般若心経」。

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「ハマっている」という言い方は少し変かもしれませんが、でも…ハマっています。
先日など歩きながら、知らないうちに口が般若心経を唱えていて、自分に若干引きました(チーン)。

般若心経、とてもメジャーなお経ですよね。いの一番的な。

そんなんで、「般若心経を空で言えるようになりたい!」と必死で覚えようとしてた時期が10年くらい前にありました。
毎日、経本見ながら唱えて、だんだん見ないようにして、覚えてないとこはまた見て唱えて。耳で聞くと覚えが早いと聞いたので、youtubeで聞いたり。・・・なんてことを(少なくとも3ヶ月は)やっていたでしょうか。
でも、一向に覚えられなかった…正確には、覚えている所もあるんだけど、覚えている部分が一向に増えていかなかったのです。
言葉って繰り返すと、流れ出て行くものもあるけど、内に溜まっていくものもあるじゃないですか?
なぜだか般若心経は、内に溜まっていくものが全然増えず、サラサラと流れ出ていく一方でした。

結構記憶力が良いと自負していた私は、だんだんとメゲてきました。「そんなに長いものでもないのに、どうして覚えられない?この残らなさ具合は何?」。

ある日知り合いと話をしていて、何故だか般若心経の話題になって「なかなか覚えられない」と私がこぼしたところ、その方が「あなたには、ちょっと般若心経が重いんだよね。祝詞とかの方がいいと思う」と言われました。
若干「?」が頭をかすめたものの、(合ってるか合ってないかは別として)覚えられない理由を指摘され、メゲていた私は少し安心しました。「じゃあ、しょうがないよね」

後日、その方は私に「一切成就の大祓」のコピーをくれました。
内容が素晴らしかったので一週間くらいは唱えていましたが、最終的には、覚えるほどモチベーションは上がらず、いつの間にか消滅しました。

そして月日は流れ、数霊の通信講座受講をきっかけに、2014年ごろから天津祝詞を毎朝唱えるようになりました。神様と仲良くなるのにいいかな〜と思って。

具体的なご利益があった訳ではありませんが、落ち込んだり悩んだり不安になったりすることが極端に少なくなりました。唱えることで波動が変わるんでしょうね〜、きっと。あと、変な氣をもらうことがなくなりました。「祓いたまえ浄めたまえ」ですね。

で、今日のテーマ、般若心経に戻ります。

約10年前に覚えようと思っても覚えられなかった般若心経は放置され、時々参加する坐禅断食で唱える程度のみ。もはや「覚えよう」という氣持ちすらなくなっていました。

そうして、今月の蛇の倉です。

蛇の倉では、般若心経いっぱい唱えます。
毎日の朝晩の祈りの時に、神様に向けてそして仏様に向けて、回数はわかりませんが、何度も何度も繰り返し唱えるわけです。
水行やる時も何度も唱えました。護摩焚きの時もずっと唱えてました。奥の院に登拝した時も。母公堂を訪れた時も。とにかく、般若心経がいっぱいでした。

それでも蛇の倉から帰る時は、6〜7割程度。

蛇の倉から帰宅して、氣が付きました。 からだに般若心経が満ちている!

蛇の倉で「祈り」の大切さを再認識した私は決めました、毎朝般若心経も唱えよう!と。今度こそ覚えられる、と確信しました。

今も、毎朝の天津祝詞と般若心経は続いています。確信どおり、般若心経、覚えられました。今度は染み込んだみたいです(^^)

ここまで書いて、私は般若心経についてあまり知らないってことに氣が付きました。

10分でわかる般若心経。
re-sta.jp

曹洞宗僧侶の方のブログに掲載されていた現代語訳、素敵です。ご自身も書かれているように忠実な訳ではなく、観音菩薩様が語りかけてくれているような訳とても良いですね〜。改めて、すごいぜ、般若心経!って感じです。

www.zen-essay.com

そういえば、般若心経ロックって流行ったよね。確かに、魂フルエルRockだ!!

般若心経の現代語訳。超スゲエんだけど。マジ感動・゚・(つД`)・゚・ - NAVER まとめ

明日の般若心経は、今までと違った風に響きそうです。 
    

 

人生は面白い。

牛乳石鹸CMの意見あれこれから思う

つい先日、牛乳石鹸のCMが世間で話題になっているらしい、と下記ブログで知りました。

pokonan.hatenablog.com

私はテレビなし生活なので、実際CMを見たことはないのですが。。

ブログで紹介されているリンク先で初めてCMを見ましたが、確かに「意味不明」でした。

ま〜、作り手(牛乳石鹸側か電通側か?または両方か)の中に、こういう思いを持った方がかなりいたんでしょうね…迷えるお父さんのボヤキが聞こえるような感じがしました。
きっと、「お父さんが大黒柱」「男は黙って云々」的な昭和ノスタルジーが漂う男たち(のみ)で盛り上がった…臭が感じられます。「お父さんは大変なんだ」と言いたかったんでしょう。

流れで偶然目にした「かおる物語」が、結構グッと来たりして。

www.cow-soap.co.jp

 

そしてまた、今朝目にしたこちらの「牛乳石鹸CM」投稿にも共感しました。この落ち込み感、疲弊感、わかる氣がします。そして、時々襲って来ます。

fujipon.hatenablog.com

ここでふと思いました。

結局、あることに対して「ああでもない」「こうでもない」と自由に自分が思ったことを表現できるってことが素晴らしいんだよな〜、と。

正しいとか間違っているとか、そういうのはどうでもよくて(多少はどうでもよくないけど)、いろんなひとの、いろんな意見・考え方・思いに触れることができるっていうのがいいんだ、と思います。

昔ネットがなかったときって、世界は狭かった。周りって今よりもっと限定的でした。

情報源がありすぎることの弊害はもちろんありますが、「世界は広い」と感じられる今の方が私は氣に入っています。

数日前の終戦記念日にシェアされた体験談数々を読んだせいかもしれません。

自由に表現している、できていることの有り難さを妙に感じた今朝でした。

 

人生は面白い。

嫁ヶ茶屋での品数々

先日書いた蛇の倉七尾山の近く、大峰山一合目にある嫁ヶ茶屋

出されるお料理はもちろん美味しい(お手製プリンは絶品です!カレーうどんが有名らしいですが、辛味冷やしそばもイケます。)のですが、そこで売っているオススメの品々をご紹介します。

洞川温泉行ったら基本中の基本、「陀羅尼助丸」(少量サイズもあり)。
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嫁ヶ茶屋自家製ラー油。美味すぎて、もう終わる。。。
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どくだみエキス。パッケージ地味ですが、どくだみ濃い。洞川のどくだみは効きめ良い印象。
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洞川温泉に行かれたら、嫁ヶ茶屋でゲットしてください!

(おまけ)
嫁ヶ茶屋ではなく、蛇の倉七尾山の本堂横の売店(?)で衝動買い(^^; ぺこちゃん線香、甘い香りです。
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人生は面白い。

蛇の倉にて行者体験入門

テンプルビューティフル企画「大峰山系の修験の里、蛇の倉修験道行者体験入門講座」に参加してきました。

元来修行好きの質なもんで(笑)、衝動的(いや、2日は考えた)に申し込んでしまいました。

修験道がどんなものか、大峰山の場所すらあやふやなままで、現地入り。
蛇の倉が天河神社の近くだと知ったのも、大峰山世界遺産だと知ったのも、下市口から洞川温泉へ向かうバスの中、という有り様…我ながら呆れました。

下市口は近鉄の駅なので「伊勢近いんじゃない?」(実際はそんなに近くもない…と後で気がついた)と思って、伊勢での宿泊予約だけは講座申込直後に手配しました。
主旨から外れたところには頭が回る自分に、若干苦笑。

大峰山は今も女性の立ち入りは禁止されている霊山です。

麓には洞川温泉があります。こちらの温泉街、町の佇まいが素晴らしく、ぶらぶら歩きたい所です。今度は、洞川温泉メインで来たい!

さてさて、本題の行者体験入門ですが。体験入門という名のとおり、水行あり、毎日の祈り行あり、作務あり、写経あり、護摩焚きあり、奥の院の登拝あり。

行者体験にふさわしい内容でした。

・・・とここまで書いたあと、一向に進まず。

当初は詳細に書こうと努力したのですが、まだ言語脳に落とし込めるまでには至っておりません。体験が濃厚であればあるほど、言葉にはしづらく…言葉を重ねれば重ねるほど、嘘くさくなり書くことを諦めました

今思うことは、私たちのご先祖は、もっと祈っていたのではないか…ということ。
「祈り」と聞くと何か特別なことと思ってしまいますが、本来は生活のそこかしこに祈りは組み込まれていたのではないか、と。
朝起きたら祈り、ご飯を食べる前に祈り、食べ終わったら祈り、眠る前に祈り、そうやって1日1日を暮らしていたのではないか。

自分で生きているのでなく、生かされている、という思い。
そういうところから見える景色は、全然違ってくるでしょう。

自分の存在、他者の存在、自分と他者とのつながり、周りの環境、季節の経巡り。
イノチあるものはすべて繋がっている。過去、現在、未来も同じ瞬間にある。切り離しては存在できない。

まずは形からでも…と、毎朝、般若心経も唱えることに。

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人生は面白い。 

脱・FB奴隷

Facebook疲れで、見るのを一ヶ月くらい止めていました。

hitokadoh-aider.hatenadiary.jp

先週くらいから再開し始めました・・・が、やっぱり疲れます。

そうか、時間を決めて見ればいいのだ!と単純なことに氣がつきました(^^;

夜は目が拒否するので、見る時間帯は朝。時間は15分以内。
そしたら、いい感じです。

当たり前のことですが、SNS(というか何でも)は自分で主導権持って使うことが大切ですね。

知らないうちに奴隷になっていたんだな〜、私。

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人生は面白い。