一香堂(ひとかどう)の身辺雑記

人生面白がろう😆一香堂はり灸師@神楽坂の雑記帳

田んぼデビュー

20(土)、21(日)と、千葉県館山の浜田地区へ行ってきました。

友人ご夫妻がやっている田んぼで田植えやってきました!田んぼデビュー㊗️

blog.manahouse.jp

その田んぼは、無施肥、不耕起の自然栽培3年めです。自然栽培の田んぼ、初めて見ました。
不耕起=耕さない、ってことです。普通の田んぼだと、田植え前に耕運機で、土と一緒に生えている雑草も掘り起こされます。それがないので、草は手でむしるか鎌で刈るのです。一見草っ原で、私が知っている「田んぼ」風景とあまりに違うので、最初は少々面食らいました。

が、ご主人のお話を聞いて、なぜ友人ご夫妻が「不耕起」という選択をしたのか納得しました。
土の中にも微生物が住んでいて、土の表面に近い方、深い方ではそこに住む微生物たちも違うんですね。それで生態系が保たれているので、それをあえて壊さない。
私たちの腸内フローラと同じですね!

友人が話していたように、彼らの田んぼはとてもいい場所にあります。
ちょうど海と山の間。そこには、ミネラルたっぷり含んだ海からの風が吹き抜け、田んぼの水は、これまたミネラルいっぱいの山からの水を貯めている溜池から引いてくる。海山両方からの恵みで、土も育ち、その土と空気の中で稲たちが育つ。

 「喜びのために田んぼをやっている」と友人は語っていました。
東京在住のお二人が、仕事の合間を縫って、この地に出向いて田んぼをやっている。
この意味の深さとデカさを、現地に来て、ひしひしと感じました。

実際自然栽培で米を作ってから、慣行栽培をする人の氣持ちもわかった、とも言っていました。農薬を使いたくなる氣持ち、除草剤を撒きたくなる氣持ち。

私もお米を買うときは「無農薬」かつ「不耕起」のものを選ぶことにしています。当然お値段は違います、慣行栽培のものとは。
あれだけ手間暇かかるんだから、そりゃ高くなるわな〜。そしてやっぱり、作る方の信念というか意思がないと、自然栽培はできないだろうと思いました。

話は飛びますが、私、米はササニシキ派なのです。
そして、自然栽培のササニシキって少ないのです。
それって育てるのが難しいからなのかとずっと思っていたのですが、ご主人の話によると、そんなに育てにくい種類というわけではないそうです。
単純に人氣がないのでしょうか…やっぱりもちもち系が人氣なのかな〜。

私の願いが通じたのか(笑)、今年からササニシキを植えることにしたそうです(今年は種取り用なので収穫は来年)。
好きなササニシキの田植えもできて、テンション上がりました!
みんな元気に育ってね❤️

こちらの田んぼ、車なくても行けます。徒歩5分の所に最寄りのバス停があります(本数は少ないけど)。日帰りも可能です。

館山の恵みを堪能するには、泊まりがけが断然イイですけどね!

今年の田植えは、以下の日程でやられるそうです。「田植えやってみたい!」という方、ぜひ連絡とってみてください。

田植えは27日、28日、そして6月3日、4日に予定しています。その間もコツコツとやってゆきますので、ぜひ!ご参加ください(^。^)

特に男子力!土木関係のサポーターも熱く募集中です!!

今後の田植えフェスの参加については下記の通りです。

参加ご希望の方はメールにてご連絡下さい。
info☆manahouse.jp(青木:☆を@に変えてください)

*日程*
5月26日(金)〜 28日(日)
6月3日(土)〜 4日(日)

田仕事の時間はだいたい10時前後から16時〜17時です。

*場所*
館山市安房浜田地域

東京駅八重洲口、または新宿バスタより高速バス「なのはな号」にて館山駅を経由して最寄りのバス停まで直行できます。)降車停留所『浜町』ここから田んぼまでは徒歩5分。

http://time.jrbuskanto.co.jp/bk04010.html

田んぼでアースしよう! 

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人生は面白い。 

破れた心は、開いた心

前回書いた本、『それでも、あなたを愛しなさい』の最初に出てきます。

悲しみで破れた心はまた、大きく開いた心でもあります。(p.3) 

 「大きく開いた心」には、いつもよりたくさんのものが入ってきます。

 

2003年にフィンドホーン共同体の体験週間に参加したときのこと。

体験週間では様々なワーク(セラピー的なのも含め)をやるのですが、何日めかのワークでとても印象に残っているものがあります。

ペア・ワークです。
一人が「愛」になって相手に愛を送る役、相手の人は確か「辛いときの自分」を身体で表現する、だったっけ?(違うかも。。忘れました)

私が「愛」の役になったとき、相手の方は背中を丸めて亀のように固まっていました。
「愛」の光の私は、すぐ側に「愛」がいることをどうにかして氣がついてもらいたいのですが、相手は閉じこもったままでした。
優しくタッチしたりして、「氣づいて」サインを送りましたが、相手は変化なく、じっとしたまま。力を強めて、相手の甲羅を開こうとすれば、ますます体を硬直させ、悪循環。。。

そんな姿を見たとき、ふと浮かびました。
「いつぞやの私も、こんな風だったのでは・・・」

私が閉じていると、全然氣付けないんだ。
こんなに近くに「愛」があったとしても、開いていなければ存在すら氣がつかない。
たとえいっぱい愛が私に降り注いでいたとしても、私が受け取ろうとしなければ、それは私の中に流れこんでこない。

「こういうのをイジケている、っていうのかな」

何の助けも救いもなく、見捨てられたように感じたら、それは私が閉じている、というサインなのかもしれない。

ってね。

悲しみであなたの心が破れたように感じたら、それは、愛がいっぱい流れ込んでくる前兆なのかもしれません。

破れて開いた心で、受け取ろう!とただ決めればいいのかもしれません。

「愛をたくさん受け取るために、心が破れたんだ」
そう思ったら、破れた心の痛みが、また違うものになるかもしれません。

心が破けて開く。そして、そこが愛で満たされる。

なぜ破れるのか?ということも、不思議と理にかなっているように見えてきました。

 

 人生は面白い。

悲しみを癒す「アファーメーション」とは


先日ブログでも書きましたが、こちらの『それでも、あなたを愛しなさい』を読みました。

アファーメーションの本です。

でも、巷でよく言われている「アファーメーション」とはちょっと違います。私自身、今までの「アファーメーション」の認識を改めました。

巷で知られているのは、自己啓発系やビジネス系の、イケイケポジティブで推していく感じ(偏見混じってます)ですよね。
ネガティブな感情を感じたら、とりあえずポジティブなこと言っとけ!的な(はい、偏見入ってます)。

著者のルイーズ・ヘイ(Louise L. Hay)とデーヴィッド・ケスラー(David Kessler)が言っている「アファーメーション」は、「様々なタイプの不幸を体験した時に、それをどのように悲しみ、どのように癒すか」というためのもの。

本に出てくる「喪失」は多岐に渡っています。
失恋、離婚、不倫、愛する人の死、病気、自分の死、ペットの死、流産、不妊、失職、なりたいものになれなかった悲しみ、etc.

誰の人生でも起こること、これらを体験したとき、「悲嘆と苦痛にとらわれずに、あなたに充分に悲しみを感じてほしいというのが」、著者の思いです。
「悲嘆と苦痛にとらわれず」は「悲しんではいけない」ではないし、
「苦痛にとらわれず」は「悲しみの痛みを避ける」ではない

そうなのです。「感情をしっかり味わうこと」が大切だと、「悲しむ時間」が重要だと、説いています。

どんな感情も抑圧したり無視したりする必要はない、と。

エリザベス・キューブラー・ロス悲しみの5段階が引用されています。否定、怒り、取引、落ち込み、受容の5つ。

悲しいとき、これらの感情・反応は出てくるのは自然なことであり、それらを抑圧したり無視したりする必要はないということです。

抑圧・無視した場合、その感情は残ります。

精神科医エリザベス・キューブラー・ロスは、次のように言っています。
「私たちは怒りを感じ、それを通過させれば、2、3分でそれを終わらせることができます。」 彼女はさらに、15分以上感じる怒りは、古い怒りなのだと語っています。(p.5) 
その人が悲しむ用意ができていないときは、用意ができたときに悲しむために、そのまま残ると思います。今だめならば後で味わうのです。いつ味わうかはその人の選択です。そして、自分の悲しみを棚上げすることが必要な時期もあるのです。(略)どんな状況であれ、あまりにも長く棚上げされすぎた時がやってきます。その悲しみは古くなり、きちんと面倒を見てもらえず、怒り始めます。そしてその人の人生にネガティブな影響を与え始めるのです。でもそれがあなたの現実である必要はありません。(p.29)

 「アファーメーション」が働きかけるのは、感情ではなく思考・考え方です。
考え方が変わったとしても、感情は起こります。自然なことです。
でも、その感情に対する考え方、受け取り方は変わります。そして、私たちはそれを選択することができるのですね。

「私たちの思考は私たちの体験を作り出します」
「ひどいことは起こらない、または悲しみが事実ではない、と言っているわけではありません。私たちの思考が喪失という体験を形作るという意味です」
(p.22)
アファーメーションとは、悲しみが存在しない振りをするのとは違う(p.29)
苦痛や痛みではなく、愛を大切にしてほしいの(p.31)
私たちは常に選択できることを覚えていてください。(p.95)
もし、責めず、批判せず、あら探しせずに自分の過去を見つめる勇気があれば、あなたは自分の思考がどのように生じ、それがなんと言っているか、観察することができるでしょう。また、自分の行動の癖についても理解できるでしょう。(p.104-105)

「アファーメーション」は、新しい考え方を見につける「行動」でもあるわけですね。

「頭で考えて新しい行動を見につけるよりも、行動して新しい考え方を身につける方が易しい」(p.108)
「そうなるまでその振りをしなさい」という言葉の意味は、(略)頭と体と魂がすでに自分の中にある真実と一つになるまで、何かを行いなさいということ(p.109)

本の中には、様々なアファーメーションが紹介されています。

自分の中に響いたものがあれば、そのアファーメーションを、
または、今の自分にぴったりくるのを創作して、オリジナル・アファーメーションを唱えてみたら、いかがでしょう?

何かが起こるかもしれません。

ちなみに、今の私に響いた言葉はこれです。
アファーメーションではないのですが、自殺を止める命の電話で10年間ボランティアで働いていたデリックの言葉です。

3つの領域しかありません。私の前庭、あなたの前庭、そして、神の前庭です。できるのは私の前庭を清掃することです。電話をかけてくる人には、愛と尊敬と理解をもって受け答えし、しつも親切と同情をもって接しています。情報を受け取った人が、それをどうするかはその人の仕事です。誰が生き、誰が死ぬかは神の仕事です。それは神の前庭のことだからです。(p.218-219) 

 「平和の祈り」と似ているかな。

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人生は面白い。 

ダブルバインド

NLPのコースを受講していたとき、同じ受講生のお一人に、
「山口さんと話していると、メビウスの輪が見える」
という意味不明のコメントをもらったことがあります(若干、不思議ちゃん系の方ではあったのですが)。

「それってわかりにくいってこと?矛盾しているってこと?」意味がわからず聞きました。

「う〜ん、矛盾というか、表裏一体というか、螺旋状に登ってったら元に戻るみたいな…そんな感じ。」
彼女は説明してくれましたが、わかったようなわからないような感じで、「そうですか…」と一応納得したような風で終えました(笑)

ちなみに、メビウスの輪ってこんな感じ。無限大∞の形でも描かれますね。

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どういう流れで、そんな話が出たのか、ぜんぜん覚えていませんが。。

NLPだから、ダブルバインド(心理学で言われているダブルバインドについて、詳しく説明されているサイトがありました。ご興味ある方はお読みいただくとご理解いただけるかと…)から派生した話だったかも。

で、ダブルバインドに飛びます。

こう言ってはなんですが、人は多少の差はあれど、ダブルバインド的メッセージを発しています。そんな意識は毛頭なくてもね(私からもダダ漏れていることでしょう)。

子供が初めて遭遇するダブルバインドは、親(養育者)からでしょう。

例にもれず、私も、親からいろいろなダブルバインドを受けてきました。
ここで強調しておきたいのですが、私がひどい育てられ方をした、という訳ではありません。

ダブルバインドは、混乱と矛盾を生みます。

そして、この社会自体が矛盾に満ちています。
また矛盾に満ちているように見えても、その先、奥底には、矛盾を超えた何か、ある種の法則性・統一性が流れているのも事実です。

私が思うに、親からのダブルバインドは、この矛盾に満ちた(ように見える)社会・現実を生きていくための洗礼ではないかと。

実際私は、親からのダブルバインドを通して矛盾を知り、その中でどう生きていくか、それをどう超えていくか、を学んだ、と勝手に結論付けています。

あ、でも、最初は無意識に沈んでいるダブルバインドを意識化しないとね。
氣づかないことには始まらないから。

時折、その人の存在自体が「ザ・ダブルバインド」って方もいます。そういう人からは距離をとりますね。それでも自分が壊れると思ったら。。。私は逃げます(笑)自分を守るために。

その人が幸せであるよう、遠くから祈ります(一回は)。

画像入れたけど「メビウスの輪」は関係なかったね(^^;

 

人生は面白い。

最後は・・・

私のトラウマ再体験は、私にいろいろなものをもたらしてくれた。
(そのプロセス中は、そんなことは微塵も思わなかったけれど。)

辛い体験を経てきた人は優しい、と言われるが、ある意味真実だと思う。
「体験するためにこの世に生まれてきた」 と言った人がいた。これも真実だと思う。

体験しないとわからないもの、見えてこないものは、あまりにも有り過ぎる。
想像、妄想、ビジュアルとは、次元が違う。

私も前より優しくなった(笑)寛容になった。

例えば、以前は、心理療法の類は「みんなやるべきだ」と思っていた。心理療法に限らず、「自己を見つめる」ということはやるべきだ、と信じていた。今は「やりたければやればいい」と思っている。
そんな変わりないじゃない?と思われるかもしれないが、結構違う。

変な脅迫観念がなくなった。変な競争意識がなくなった。(ゼロじゃないが、格段になくなった)

私は何があっても私でしかなく、減りも増えもしない、という感覚。
なかなか言語化は難しいが、「委ね」が近いかな。でも、この言葉も、以前の認識と今の認識が変わっているから、ドンピシャではない・・・

次に「正論は役に立たない」と実感したのおかげで、「正論振りかざし」オババはやめようと決意した。
なぜなら正論は、何にも動かない、何にも打たない、何にも響かない。つまり、つまらない(ちょっとダジャレってる 汗)。
「正論振りかざしオババ辞めます」宣言に至るまでは、自分がいかに上っ面な人間だったか、自分が発していた言葉がいかに浅はかだったか、いろいろ浮かんできて、かなり悶えたのだがね。

「べき」→「したい」。「自発性」→「内発性」。宮台真司さんがいうところの「virtue」にも繋がるかと(元氣のある人はこちらも読んでください)。

最後に、これのおかげで「寛容」がデカくなったのではないか…と思っていることがある。
被害者でいることでもたらされるSweetな感じを味わったこと(私の場合です。他の人は知りません)。若干「悲劇のヒロイン(ヒーロー)症候群」に似ているか。

被害者でいることは痛い、辛い。何とかして、このトラウマから立ち直りたい、と思っていた。
同時に、その奥にうっすらと漂う「被害者で居続ける」ことの誘惑も感じた(私の場合です。他の人は知りません)

立ち上がるには力がいる、勇氣がいる。
「もうダルいから、このままでいいか」っていう氣持ちにもなった。

今辛くて何とかしたいのだが、そこから抜け出すのも「怖い」という感覚があった。
それは未知の世界だから。「知らない」ことはワクワクも生むが、恐怖も生む。

最後の最後は「被害者を止める」という自分の決心が必要なのだ。
今の状況も見通しも関係なく、自分で決める
言葉で書くと簡単だけど、この簡単なことを肚くくってやる。一回でダメだったら何度でも決心すればいい。

決心した通りの現実になったから、成功、っていうんじゃないんだよね。

「決心する」という行為が、何らかのエネルギーを生む。そこで起こる周波数変更が大きな力になる。

前回「苦しんでいる(いた)人は誰かの救世主」と書いたけれど、

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最後は「私が、私の救世主」なんだ。

 

別のことで検索していたら、2009年に「救世主って誰?」というブログ書いていた(笑)
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人生は面白い。

苦しんでいる(いた)人は救世主

前回より続く)

プロセスのさなか、ある女性(仮にMさんとしておきます)のことを思い出しました。

ある勉強会でお知り合いになった方でした。
お会いした当時、Mさんは性的トラウマのため、時折とても不安定な精神状態で、危うい印象がありました。

メンタル的要素もある勉強会でしたので、勉強会のあと、ときどきお茶しながら、Mさんの話を聞くことがありました。今まで勉強してきた心理学のこと、性的トラウマのこと、離婚したこと、今の彼氏のこと、等々。

ある日、彼女は「自分が性的被害者である」と認識した経緯を話してくれました。
レイプ・トラウマで悩んでいる女性の知り合いがいて、彼女は心理学を勉強していたので、いろいろ相談に乗っていたことがあったそう。そのうちに、自分の中に湧き上がってくる感情があって、わかったそうです。
「私もその人とおんなじだった。彼女のように『挿入』はなかったけれど、自分も性的被害者だった、とわかったの。」

2011年秋、私はこの言葉を思い出して、Mさんに連絡し、新宿で会ったのでした。

約2年ぶりに再会した彼女は、穏やかで、落ち着いていて、幸せそうに笑っていました。

2年前に「共依存なの」と話していた彼との暮らしは続いていて、実際、その生活をとても楽しんでいるご様子でした。
共依存の彼氏」の話を初めて聞いたときはびっくりしたし、このときにお二人の関係性が深まっていたことにも驚いた。

ランチしてお茶して、いろいろな話をしていたら、すっかり夕方になっていました。

別れる間際、Mさんが「何か相談っていうか、お話があるのかな?と思ったんだけど・・・違う?」と聞かれました。
Mさんには話せそう、と思って、言葉を出そうとしたのだけれど、喉が凍りついて声が出ない。「ごめんなさい。まだちょっと言葉にできません」と謝りました。

彼女は一瞬何か聞きたそうだったが、「じゃあ、話せるようになったら聞かせてね。『話す』は『放す』だからね」と掌をパッと開いて、ゆっくりと微笑みながら言いました。
「そうっか、『話す』は『放す』か〜。いいですね〜。」私も、グッパー、グッパーと何回か手を動かしながら、答えました。

 「話す」は「放す」。この言葉は、その後何度も私の中に響いてきました。

2年前自分と同じ状態だったMさんが、今は生活を楽しんでいる。そして、共依存彼氏とも幸せそうだ。
その事実は、私に勇氣と希望を与えてくれました。
彼女の佇まいは、どんなカウンセリングやヒーリングよりも、私に力を与えてくれました。

その後、結局Mさんには話せずじまいですが、感謝しています。

彼女に再会して、確信したことがありました。
苦しんでいる(いた)人は誰かの救世主なんだ、ってね。

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人生は面白い。

フラッシュバック

前回から続く)

「トラウマ」とか「フラッシュバック」とか、多少の知識はありました。

たとえ知識があったとしても、起こるときは起こるのですね。知識があったから、軽いものになるとも限らない。
「これはフラッシュバックだから死なない」と頭でわかっていても、実際、過呼吸で呼吸困難になり身体が痺れてきたりすると、ものすごい恐怖を感じました。

自分の場合、フラッシュバックは「記憶の解毒」だったような氣がします(注:あくまで私見です)

それは辛かったし、しんどかった。
最近大丈夫だ〜と思ったら、また戻ってきたり。

最初はその波をどうにかしてコントロールしようと躍起になっていましたが、頭を使って知識を使って知性を使って、どうにかはできませんでした。

これも自然の波と同じ、この波に乗っていこう!(サーフィンしないけど)と思ったんですね。
抵抗するより、嵐が通り過ぎるのを待つ。
無理に避けようとも紛らわそうともせずに、委ねるって感覚。

そうしていると自分の体感でわかってくる。

ある意味、稽古に近いでしょうか。忍耐もいる。

そして、やはり「時間」は必要です。「時が解決する」とはよく言ったものです。

とはいえ「待とう」「委ねよう」そう思えるまでに、また段階と時間が必要でした(笑)

まず、こんなことになっている自分が嫌で、恥じていました。
① 私は「レイプされていない」わけで未遂だった、のに、
② もう20年も前の、そんな昔の記憶なのに、
PTSD寸前ってありえないから!こんなグラグラ状態って信じられない!弱すぎだろ!って感じ。

これまでは、こんな感じで叱咤激励したら大丈夫でした。自虐ネタで笑い飛ばしていたら大丈夫でした。第三者的視点で自分を見ていたら大丈夫でした。(いや、本当は大丈ではなかったのかもしれない…)

今回は、それまで機能していた方法は功を奏せず・・・

自分に対する許可が必要でした。

  • 傷ついてもいい、
  • 悲しくてもいい、
  • 弱くてもいい、
  • 「つらい」と言ってもいい、
  • 助けを求めてもいい、
  • 今までの自分は壊れてもいい、等々。

「許可って、そんなの、とっくにやってるよ!」ってずっと思ってました。でも、まだまだ許していない自分に、たくさん出会いました。

それは、今まで「私」と思っていた殻を一枚一枚脱いでいく作業でした。
「これが自分」と思っていた殻をはいでいくようなもんですから、そりゃ痛くて当然ですね(と今は言えるけど)。

 

痛い度に、私は、「からだ」との約束を思い出していました。

その思いは、あるとき、ふと浮かんできました。
「記憶を思い出す直前に感じた、からだの緩み、なんかホッとしたように感じた。
私が事実をちゃんと受け止められるまで、『からだ』が記憶を貯めておいてくれてたんじゃないか・・・」

「からだ」に、この苦痛を今まで押し付けていたことを謝まりました。
今までこの記憶を引き受けてくれていたことにお礼を言いました。そして、約束しました。
「今度は押し付けないから。ちゃんと向き合って受けとめるから。」

受けとめるには「体験」する必要がある、と私は知っていました。
今回は逃げずに、体験して昇華させるときなのだ、とも。

(次回も続く予定) 

 

補足:フラッシュバックについて書かれているものをググってみました。
こちらのサイトが好みです、神田橋先生が引用されているので(記事が途中で終わっていますが…)。
www.appuyer.jp

クローズアップ現代でも、過去トラウマ治療について取り扱っていたんですね。
www.nhk.or.jp

今回は、ケン・ウィルバーと埋め込みが多い (^^;

 

人生は面白い。